ソクラテスとゼノンの対話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 23:21 UTC 版)
「パルメニデス (対話篇)」の記事における「ソクラテスとゼノンの対話」の解説
朗読を聞き終えた青年ソクラテスは、もう一度「第一論説」の「第一仮定」を読んでもらうよう頼み、それが読まれた後、ゼノンに質問を始める。 ソクラテスはまず、ここでゼノンが言いたいのは、「存在が「多」ならば、それは「似ていて、似ていない」ということにならなくてはならないが、それは不可能である(なぜなら、「似ていない」ものが「似ている」こともあり得ないし、「似ている」ものが「似ていない」こともあり得ないから)」ということか問う。ゼノンは同意する。 ソクラテスは、そうすると「存在が「多」であること自体が不可能である」と、存在の「多」の否定を主張することがゼノンの意図であり、ゼノンはこれらの論文によってそれを証拠づけようとしているのかと指摘する。ゼノンはその通りだと同意する。 するとソクラテスは、ゼノンは、「万有は一つ」であることを主張している師パルメニデスとは言い方こそ変えているものの、同じことを主張しており、世人には分からないように密かに師の説の証拠づけを行っているのだと指摘する。ゼノンは、この書物を書いた意図は、パルメニデスの説を「矛盾を孕んだもの」であると笑いものにする人々に対抗・反論することであり、存在の「多」を主張する人々の方がもっと多くの難点を抱えていることを指摘するために、若い頃にこれを書いたのであり、あくまでも若い頃の対抗意識の産物であって、ソクラテスが考えているような年を取ってからのもったいつけた意図の下で書かれたものではないと答える。 続いてソクラテスは、ゼノンに対して「イデア論」を持ち出し、「似る」(類似性)や「似ない」(不類似性)が「形相」としてそれ自体で独立に存在し、私やあなたやその他の事物がそれらを共有・分有・分取することでその性質を帯びるとしたら、「一」と「多」についても同じことが言えるだろうし、私や石や木材が「一」であり「多」でもあるといった主張は可能だし、不思議でも何でもないこと、しかし仮にそうした「類似」と「不類似」、「一」と「多」、「静」と「動」といった「形相」自体が混ざったり切り離されたりするといったように(「イデア論」の難点を)指摘・論証してくれる者がいたなら、自分の感心と驚嘆は非常に大きなものとなると主張する。
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