セルティックス人事部門責任者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 06:33 UTC 版)
「レッド・アワーバック」の記事における「セルティックス人事部門責任者」の解説
ビル・ラッセルが選手兼監督として初めてセルティックスを率いた最初のシーズン、チームはウィルト・チェンバレンを擁するフィラデルフィア・セブンティシクサーズに敗れ、優勝を逃した。しかし翌シーズンからは2連覇を成し遂げ、ボストン・セルティックスは13年間で11回の優勝を果たした。 1969年にラッセルがチームを退くと、アワーバックはトム・ヘインソーンを監督に抜擢。1970年にはドラフトでデイブ・コーエンスを獲得し、セルティックスは1974年と1976年に再び優勝に返り咲いた。しかしその後チームの成績は徐々に低下していき、1978-79シーズンには29勝53敗まで落ち込んだ。 この低迷期に、アワーバックは大学界で活躍するラリー・バードに目をつけた。1978年、まだ大学3年だったバードをアワーバックはドラフト6位で指名した。バードは初めに入学した大学を1年で退学しており、この当時には既に大学に入ってから4年目になっていたため、アワーバックはドラフト規則の盲点を突いてバード獲得に成功した。1979年にバードがセルティックスに加わると、セルティックスは前シーズンから32勝上乗せし61勝21敗でシーズンを終えた。バードは新人王に選ばれた。 翌1980年のドラフトでセルティックスは1位の指名権を持っており、アワーバックはケビン・マクヘイル獲得を狙っていた。しかしアワーバックは1位指名権をゴールデンステート・ウォリアーズに譲り渡し、見返りにロバート・パリッシュと3位指名権を手に入れた。ドラフト上位指名権を持つ2チームはアワーバックの予想通りマクヘイルを指名せず、セルティックスは3位でマクヘイルを獲得。この一連の動きで入手したパリッシュとマクヘイル、そして既に入団していたラリー・バードは、ボストン・セルティックスの第2の黄金期を支える選手となった。 1981年にセルティックスは優勝を果たし、以後は1980年代を通じて西海岸のロサンゼルス・レイカーズとともにリーグを代表するチームとなっていった。1984年に、チームはレイカーズと決勝で対戦し、80年代で2度目の優勝を果たした。この年からラリー・バードは3年連続でMVPを受賞、ケビン・マクヘイルは「シックススマン」として勝利に貢献した。 1985年にセルティックスは再び決勝でレイカーズと戦い、このシーズンは優勝を逃した。再び優勝できる体制を整えるため、チームはビル・ウォルトンをトレードで獲得した。翌1985-86シーズン、セルティックスは空前の強さでリーグを席捲した。バード、マクヘイル、パリッシュは史上最高のフロントラインと呼ばれ、かつてのMVPウォルトンはベンチから出て効果的にチームに貢献した。このシーズン、セルティックスは80年代で3度目の優勝を果たした。 1986年の優勝はアワーバックが監督また球団運営関係者として経験した16度目の優勝で、また最後の優勝経験となっている。アワーバックは1984年以降球団社長の役職に就いていたが、高齢から次第にチームの運営を他に任せることが多くなっていった。1997年から社長を退き球団副理事の身分となり、2001年に再び社長の役職に就いていたが、チームの業務に直接関わらずに近年は実家のあるワシントンD.C.で暮らしていた。
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