セルティックス王朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 04:37 UTC 版)
「ダニー・エインジ」の記事における「セルティックス王朝」の解説
当時のセルティックスはラリー・バード、ロバート・パリッシュ、ケビン・マクヘイルら史上最高と謳われるフロントコート陣を擁しており、エインジはこの黄金期セルティックスの一員として迎え入れられた。しかしキャリア初期のエインジはシュートセレクションの悪さが目立ち、チームメイトからは「野球の打率の方が良い」とからかわれていた。当然出場時間は限定され、1年目の1981-82シーズンは53試合の出場で平均4.1得点の成績に終わる。2年目にはシュートセレクションが改善され、フィールドゴール成功率は急速に上昇した。成績は平均9.9得点にまで伸び、ジェラルド・ヘンダーソンから先発ガードの座を奪うことに成功するが、セルティックスが80年代に入って2度目の優勝を飾った1983-84シーズンは再び控えに回され、成績を落とした。 エインジがセルティックスにとって欠かせない存在となったのは1984-85シーズンからだった。このシーズン、ジェラルド・ヘンダーソンがチームを離れたため、エインジはセルティックス不動の先発ガードに定着。ガードの選手ながらFG成功率は5割を突破し、アベレージは平均12.9得点を記録した。翌1985-86シーズン、セルティックスは67勝15敗というリーグ史上でも屈指の好成績を収める。ファイナルではヒューストン・ロケッツを破り、エインジは2つ目のチャンピオンリングを手に入れた。この優勝が、80年代セルティックス最後の優勝となった。 1986-87シーズンからエインジはシューターとしての才能を発揮しだすようになる。スリーポイントシュート試投数、成功数ともに前シーズンから3倍以上に増え、成功率43.3%はリーグ3位の成績だった。このシーズンもセルティックスはファイナルまで勝ち進んだが、宿敵ロサンゼルス・レイカーズの前に敗れている。その後もエインジは平均15得点前後を稼ぎ出す有力なスコアラーとして活躍し、1987-88シーズンにはオールスターゲームにも出場を果たしたが、一方セルティックスはデトロイト・ピストンズの台頭に押されつつあった。1988-89シーズンにはエースのラリー・バードがシーズンの大半を欠場し、シーズン序盤から苦戦を強いられた。高齢化が進んだため、チームは35歳のロバート・パリッシュの代わりを務められる若いセンターを探していた。そしてサクラメント・キングスのジョー・クラインに目を付け、トレード要員として白羽の矢が立ったのがエインジだった。この年に指名したルーキーブライアン・ショウがエインジの代わりになると判断したチームは、ついにエインジをトレードで放出した。
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