セルティックス、6番目の男
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/25 17:01 UTC 版)
「フランク・ラムジー (バスケットボール)」の記事における「セルティックス、6番目の男」の解説
ラムジーは1954年にセルティックスに合流するが、クリフ・ヘイガンはビル・ラッセル獲得のためセントルイス・ホークスにトレードされた。大学時代に苦楽を共にしたラムジーとヘイガンだが、NBAではライバルとして対立することになる。当時のセルティックスは未だ中堅チームの座に甘んじていたが、ボブ・クージーにビル・シャーマン、そしてラムジーと後の栄光の時代への土台作りは着々と進んでいた。ラムジーはルーキーイヤーの後に兵役に就くため1シーズン半セルティックスが離れるが、再合流した1956-57シーズンにはビル・ラッセルとトム・ヘインソーンが入団しており、セルティックスはこのシーズン44勝28敗の好成績を収めた。ラムジーは十分に先発級の実力を持っていたが、ヘッドコーチのレッド・アワーバックはあえてラムジーをシックスマンとして起用。これが奏功し、プレーオフを勝ち抜いたセルティックスはファイナルでヘイガンが所属するセントルイス・ホークスを破り、初優勝を果たした。翌1957-58シーズンにラムジーはキャリアハイとなる16.5得点7.3リバウンドを記録し、以後も平均15得点前後を記録するチームの有力な得点源として活躍した。 セルティックスは1958-59シーズンに2度目の優勝を果たして以後、空前の八連覇を達成し、1964年に引退するラムジーは6回、初優勝を加えると計7回の優勝に貢献することになる。シックスマン起用だったためオールスター出場や個人賞などとは無縁だったが、彼は伝説的な八連覇時代のセルティックスにおいて、ラッセルやクージー、シャーマン、ジョン・ハブリチェックらと並ぶ重要な選手であったと評価されている。以後セルティックスはラムジーの後任となるハブリチェックや1970年代のポール・サイラス、80年代のケビン・マクヘイル、ビル・ウォルトンなど、シックスマンに優秀な選手を置くことが伝統となり、他に類を見ない大きな成功を収めるに至った。またラムジーの活躍はそれまでは「一番優秀な控え選手」に過ぎなかったシックスマンの地位を大きく押し上げることになり、「チームの切り札」として試合の重要な要素となった。 ラムジーは自身7回目の優勝を飾った1964年を最後に引退。NBA通算成績は9シーズン623試合の出場で、8,378得点3,410リバウンド、平均13.4得点5.5リバウンドの成績だった。彼の背番号『23』はセルティックスの永久欠番になっている。
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