スイス帰化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 18:49 UTC 版)
「アルベール・コーエン」の記事における「スイス帰化」の解説
翌年1914年、ジュネーヴに移住。1917年に法学士を取得し、さらに文学部に進んだ。1919年にスイスに帰化し、牧師の娘エリザベット・ブロシェと結婚。1921年に一人娘のミリアムが生まれた。エリザベットはリンパ系の悪性腫瘍により1924年3月23日に死去。その後出会った女性で小説『ソラル』(1930年出版)を書くきっかけとなったイヴォンヌ・イメールも1929年6月23日に心停止で急死した。コーエンの作品は死を扱ったものが多いが、このテーマはしばしばこうした度重なる不幸との関連で論じられている。 1919年に遠縁の者から誘いがあってアレクサンドリア(エジプト)で弁護士の仕事を始めたが失敗に終わり、ジュネーヴに戻った後、プロテスタントの家庭に育った妻エリザベットにユダヤ教の話をしたことをきっかけに詩を書き始め、1921年に詩集『ユダヤの言葉』を発表した。「投影 ― ジュネーヴの午後」と題する評論を文芸誌『新フランス評論』に送ったところ、編集長ジャック・リヴィエールに高く評価された。リヴィエールはジュネーヴまで出向いてコーエンに会い、今後彼の小説5作を出版するための契約を締結したいと申し出た。また、この後、コーエンのシオニズム運動を支援したのもリヴィエールである。この一環として、シオニスト運動の指導者ハイム・ヴァイツマン(後に初代イスラエル大統領)の要請によって『新フランス評論』が1925年に創設(ガリマール社が出版)した文芸誌『ユダヤ評論』の編集委員を務めた。ジークムント・フロイト、アルベルト・アインシュタインも編集委員であった。これと並行して、国際連盟のシオニズム運動代表を務め、次いで(国際労働機関内)国際労働事務局職員として難民・無国籍者の自由な移動のための査証の導入に尽力した。 国際連盟は1944年、国際労働事務局は1951年に辞することになるが、一方で、執筆活動を精力的に続け、1930年発表の最初の小説『ソラル』で名声を博した。この作品は、『釘食い男』(1938年出版)、『選ばれた女』(1968年出版)、『益荒男ども』(1969年出版)と併せてコーエンの4部作とされる。1930年には戯曲『エゼキエル』も発表され、1933年にコメディ・フランセーズで上演された。この頃、旧オスマン帝国出身のセファルディムによって1916年に結成された「ジュネーヴ・セファルディム友愛団体」に加入した。 マリアンヌ・ゴスと結婚し、最初の妻との間に生まれた娘ミリアムと3人で暮らし始めた。マリアンヌ・ゴスも最初の妻と同様にプロテスタントであった(まもなく離婚した)。
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