ジョブズとウォズニアックの離脱
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「Apple」の記事における「ジョブズとウォズニアックの離脱」の解説
1985年9月、ジョブズは当時所有していたAppleの株を1株だけ残して約650万株をすべて売却し、NeXT社を創立した。それと同時にスカリー宛てに郵送で辞職願を提出し、会長職も辞任した。2010年の記事で、スカリーは一番後悔していることとして、ジョブズを辞任に追い込んだことを挙げている。ウォズニアックもまた、別の事業を始めるため1985年前半に(ジョブズよりも先に)Appleを離れていた。その際、ウォズニアックはAppleがApple II部門を冷遇してきたことへの不満を表明し、会社が「過去5年間ずっと間違った方向に進んでいる」と述べた。 ジョブズとウォズニアックが去った1985年、AppleはMacintosh向けにキヤノンと共同開発したレーザープリンターであり、出資先のアドビシステムズ(現・アドビ)が開発したPostScriptを搭載したLaserWriterを発売し、コンピュータ上で描いた文字や絵を出力する際にドットの粗いディザを表示させることなく、きれいなアウトラインで出力することを可能にした。また、アルダス社(現・アドビ)の開発したPageMakerとMacintosh、レーザーライターを組み合わせることで、DTPという市場を創造した。精巧なタイポグラフィ機能を備えていたMacintoshは、DTP用コンピュータとして圧倒的な人気を博し、Appleは初期のDTP市場を事実上独占することに成功した。 ジョブズに代わってMacintosh部門のトップに立ったガセーは、55パーセントの利益率という目標を意味する「55か死か(fifty-five or die)」というスローガンを掲げてMacintosh製品の値上げを実行し、1980年代後半のAppleで高価格・高利益率路線を推し進めた。高価格で販売された「Macintosh II」などの新型モデルは高い利益率を提供し、DTP市場での人気を背景に当初は売上高にも減少は見られなかった。さらに、Appleは外部のソフト会社にMac用のソフト開発を説得する職種であるエバンジェリスト(宣伝部)を作り、ガイ・カワサキらを任命した。
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ジョブズとウォズニアックの離脱
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「Appleの歴史」の記事における「ジョブズとウォズニアックの離脱」の解説
1985年3月、スカリーはジョブズをMacintosh部門から降ろすことを決定し、4月には取締役会から全会一致の承認を得た。ジョブズはこの決定に反発し、スカリーが5月末に中国に出張するのを利用して彼を解任することを画策したが、その企てはAppleのフランス法人ゼネラルマネージャーであるジャン=ルイ・ガセーにより事前に密告され、スカリーは出張をキャンセルし、翌日の重役会議でジョブズと直接対峙した。スカリーは出席したAppleの重役一人一人に自分とジョブズのどちらを支持するのかを質問したが、全員がスカリーへの支持を表明した。その後取締役会もスカリーへの支持を表明し、5月31日にジョブズは全ての業務から外され、何の実権も持たない会長職を与えられた。 1985年9月、ジョブズはAppleを退社して新会社「NeXT」を立ち上げた。ウォズニアックもまた、別の事業を始めるため1985年前半にAppleを(ジョブズよりも先に)離れていた。その際、ウォズニアックはAppleがApple II部門を冷遇してきたことへの不満を表明し、会社が「過去5年間ずっと間違った方向に進んでいる」と述べた。 ジョブズとウォズニアックが去った1985年には、Appleがキヤノンと共同開発したMacintosh用レーザープリンターである「LaserWriter」と、アルダスが開発した文書作成ソフト「PageMaker」が発売され、「デスクトップ・パブリッシング (DTP)」という新たな市場が誕生した。精巧なタイポグラフィ機能を備えていたMacintoshは、DTP用コンピュータとして圧倒的な人気を博し、Appleは初期のDTP市場を事実上独占することに成功した。ジョブズに代わってMacintosh部門のトップに立ったガセーは、55パーセントの利益率という目標を意味する「55か死か (fifty-five or die)」というスローガンを掲げてMacintosh製品の値上げを実行し、1980年代後半のAppleで高価格・高利益率路線を推し進めた。高価格で販売された「Macintosh II」などの新型モデルは高い利益率を提供し、DTP市場での人気を背景に当初は売上高にも減少は見られなかった。 1980年代末、Macintoshと同等の機能をはるかに低い価格で提供するPC/AT互換機用のDTPプログラムが登場すると、ガゼーの高価格路線は裏目にでることとなった。Macintoshはそれまで維持してきたDTP用途での優位性を失い、高価格路線の結果としてその他の一般ユーザーはMacintoshを敬遠していた。1989年9月にはガゼーが開発を推進したポータブルコンピュータ「Macintosh Portable」が発売されたが、ライバル機種と比較してかなり重いことがネックとなり販売は低迷した。Appleは1989年のクリスマス・シーズンで史上初めて売上高の減少を記録することとなり、それを受けて株価は20パーセント下落した。この時期にはスカリーとガゼーの関係も悪化しており、スカリーは1990年1月、最高執行責任者 (COO) にガゼーではなくマイケル・スピンドラーを任命した。この事実上の降格処置を受けて、ガゼーは1990年9月にAppleを去った。ガゼーが退社した直後の1990年10月、Appleは「Macintosh Classic」、「Macintosh LC」、「Macintosh IIsi」という3種の廉価モデルを発売し、低価格帯(ローエンド)の製品ラインナップ強化を図った。
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