ジブラルタルの包囲と関連動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 10:43 UTC 版)
「ユースフ1世 (ナスル朝)」の記事における「ジブラルタルの包囲と関連動向」の解説
詳細は「ジブラルタル包囲戦 (1349年-1350年)」を参照 北アフリカのマリーン朝では1348年にアブル=ハサン・アリーの息子のアブー・イナーン・ファーリス(在位:1348年 - 1358年)が反乱を起こしてフェズを占領し、イベリア半島のマリーン朝の支配地がアブー・イナーンの支配下に入った。そしてアルフォンソ11世がこれを口実に平和条約の存在はもはやイスラーム教徒の支配地からの攻撃を阻止し得ないと宣言したことで1349年にナスル朝で再び戦争が勃発した。1349年6月もしくは7月にアルフォンソ11世の軍隊がジブラルタルへの包囲を開始した。ジブラルタルは1309年にフェルナンド4世によってカスティーリャに占領された後、1333年にマリーン朝が奪還していた。包囲戦に先立ち、ユースフ1世はジブラルタルの守備隊を強化するために弓兵と歩兵を派遣した。7月にはアルフォンソ11世も自ら包囲軍の陣中に加わり、同じ月にムルシア王国(英語版)に対してナスル朝を攻撃するように命じた。アラゴン王のペーラ4世はユースフ1世の抗議にもかかわらず包囲を支援するためにアラゴンの艦隊を派遣したものの、その一方でユースフ1世との平和条約を尊重してナスル朝のすべての臣民に対して危害を加えないように部下へ指示していた。マリーン朝が救援を送れなかったためにカスティーリャとの戦いにおける主役はユースフ1世が担うことになり、ユースフ1世は軍隊を率いて一連の反撃に出た。1349年の夏にはアルカラス(英語版)とケサーダ(英語版)の郊外を襲撃し、エシハを包囲した。同年の冬にはリドワーンを派遣してカニェテ・ラ・レアル(英語版)を包囲し、2日後に降伏させた。 包囲戦が進む中で1348年にイベリア半島の港へ上陸していた黒死病が包囲軍の陣地を襲った。アルフォンソ11世は参謀たちの忠告にもかかわらず包囲に固執した。その結果アルフォンソ11世自身も感染し、1350年の聖金曜日(3月26日)もしくはその前日に死去した。都市の守備隊の一部が見守る中、カスティーリャ軍はジブラルタルから撤退した。ユースフ1世は敬意を表して国王の遺体とともにセビーリャへ向かうカスティーリャ軍の縦隊に対して攻撃を加えないように国境地域の軍と司令官に命じた。アルフォンソ11世の後を継いだのは15歳の息子のペドロ1世(在位:1350年 - 1366年)であった。ユースフ1世、ペドロ1世、そしてマリーン朝のアブー・イナーンは1350年7月17日に1357年1月1日まで有効となる条約を締結した。ナスル朝とカスティーリャの間で交易が再開され(ただし馬、武器類、小麦を除く)、捕虜も交換された。ユースフ1世は和平と引き換えにペドロ1世に貢納金を支払い、要求があれば300騎の軽騎兵を派遣することに同意したが、公的にペドロ1世の臣下となったわけではなかった。また、内心ではペドロ1世を嫌っていたものの、条約上の義務は遵守した。ユースフ1世は — 歴史家のジョゼフ・オキャラハンによれば不本意ながらも — アギラール(英語版)におけるアルフォンソ・フェルナンデス・コロネルの反乱の鎮圧を支援するために300騎のヒネーテ(英語版)(スペイン語で騎兵を意味する)を派遣し、アルヘシラスからペドロ1世に対して反乱を起こそうとした王の異母兄のエンリケを支援することも拒否した。
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