ジブラルタルの陥落と占領
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「ジブラルタル包囲戦 (1333年2月-6月)」の記事における「ジブラルタルの陥落と占領」の解説
6月になってようやく、アルフォンソ11世は援軍を送ることができた。王の相談役はグラナダ王国とマリーン朝の両方と戦うことになり、非常に危険を伴うので援軍派遣に反対した。8日間セビリアで議論してから、アルフォンソ11世は自らの意見を通し、反抗的な臣下のフアン・マヌエルを説得して、ムーア人に対して王を支援させることができた。王はヘレスに進軍し、ジブラルタルから4日の距離にあるグアダレーテ川に布陣したが、防衛側にとっては遅きに失した。 ジブラルタル内部は6月中旬頃には絶望的な状況だった。食料がなくなり、住民と駐屯兵は革から栄養を得ようとして自分たちの盾やベルト、靴まで食べるような状況に陥っていた。提督は船に取り付けられていたカタパルトから城壁を越えて小麦粉の袋を飛ばそうとしたが、ムーア人によりカスティーリャの船が撃退された。ムーア人側のカタパルトは防衛軍に深刻なダメージを与え、弱体化した駐屯兵はもはや抵抗できる状態ではなかった。 1333年6月17日、Vasco Perezはアブー・マーリクとの協定に同意すると、ジブラルタルを明け渡した。包囲された人々すべてを5日間養えるほどの食料を自分の倉庫に溜め込んでいたとされ、身代金を要求するという明確な意図で、栄養が十分な多くのムーア人捕虜を自分の家に入れていた。総督は失態に対する処罰から逃れるために北アフリカに逃亡した。アルフォンソ11世の年代記編者は「総督には要塞を自らの主君の手に引き渡すか防衛に殉じるかのいずれかを行う義務があった」と記したが、総督がどちらも行うことはなく、カスティーリャ王国において裏切り者として非難された。他の防衛兵は、街を長期間守った勇気に敬意を表し、名誉ある形で立ち去ることを許された。ジブラルタル陥落はモロッコで熱狂的に受け取られた。ムーア人の年代記編者Ibn Marzuqはトレムセンで学んでいた時に、教師が教室で「Rejoice, community of the faithful, because God has had the goodness to restore Gibraltar to us!」と発表したと記録した。Ibn Marzuqによれば、歓喜した生徒は大声で賞賛を叫び、感謝を伝え、嬉し涙を流したという。
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