ジゴマと浅草オペラとは? わかりやすく解説

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ジゴマと浅草オペラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/20 06:17 UTC 版)

金龍館」の記事における「ジゴマと浅草オペラ」の解説

1911年明治44年10月1日東京市浅草区公園六区現在の東京都台東区浅草1丁目26番)、「常磐座」の隣地開業した。同敷地は、常盤座経営する根岸興行部社主根岸浜吉が、1907年明治40年4月開かれた上野公園での「東京勧業博覧会」で建てられ有名になった観覧車移設した場所(浅草公園ルナパーク内)であった開業翌月同年11月京橋映画会社福宝堂(のちの日活前身一社)が、フランス映画ジゴマ』のプリント輸入して探偵奇譚ジゴマ』のタイトルで、同館の活動弁士加藤貞利の解説封切り大ヒットとなった。これが「日本初洋画ヒットと言われる金龍館は、福宝堂フラッグシップ館で、福宝堂製作の作品をすべて公開した1912年明治45年)に福宝堂は4社合併日活になり、1914年大正3年2月15日公開桝本清監督の『谷底』を最後に日活フラッグシップ離れた1913年大正2年)にはさらにならびに洋画封切館東京倶楽部」を開業1916年大正5年5月1日には、常磐座金龍館東京倶楽部の「3館共通入場券」(2階20銭、1階10銭)を導入したこのころの同館では曾我廼家五九郎芝居上演しており、のちの映画監督松本英一勤務していた。同館の文芸部には、20代高田保がいた。 1919年大正8年2月18日金龍館では、清水金太郎静子夫妻が、日本館の「東京歌劇座」を離れて田谷力三らと結成した七声歌劇団」の旗揚げ公演上演した同年5月1日伊庭孝が、高木徳子設立した歌舞協会を、高田雅夫とともに改組して「新星歌舞劇団」を結成したが、翌1920年大正9年9月3日根岸興行部根岸吉之助はこれを同社専属とし「根岸大歌劇団」とさらに改称金龍館は同歌劇団の拠点となった初演同年10月11日伊庭孝作詞竹内平吉作曲高田雅夫コレオグラフによるオペラ釈迦であった1921年大正10年)末、根岸興行部金龍館大改築し、同年12月31日再オープンした。1922年大正11年3月20日、「根岸大歌劇団」がジョルジュ・ビゼーオペラカルメン』を金龍館初演同作のコーラス・ボーイとしてで17歳榎本健一エノケン)がデビューした当時のコーラス・ボーイに藤原釜足がいた。1923年大正12年9月1日関東大震災金龍館壊滅1924年大正13年3月、「根岸大歌劇団」は解散した根岸興行部松竹傘下入り金龍館復興向かった

※この「ジゴマと浅草オペラ」の解説は、「金龍館」の解説の一部です。
「ジゴマと浅草オペラ」を含む「金龍館」の記事については、「金龍館」の概要を参照ください。

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