シベリアの抗日パルチザンとは? わかりやすく解説

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シベリアの抗日パルチザン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 13:51 UTC 版)

抗日パルチザン」の記事における「シベリアの抗日パルチザン」の解説

ロシア革命によって混乱陥ったシベリアへ、連合国一員として日本軍出兵中、赤軍協力して多数パルチザン部隊結成された。(詳しくは、シベリア出兵参照ドミートリイ・ショスタコーヴィチ交響詩十月革命』には、『パルチザンの歌』(または『谷を渡り丘を越え』)が取り入れられている。この歌は、日本では野を越え山を越えて』という題名知られるが、赤軍パルチザンが、最後に残った沿海州白軍打ち砕き、ついに太平洋にまで達した戦い歌ったものだ。1922年の末、白軍崩壊見届けた日本軍ウラジオストクから撤退することによって、ロシア内戦終結したのである。 元々、ロシアにおける「パルチザン」という言葉は、本隊対す別働隊遊撃隊)を意味する軍事用語だったが、十月革命主体となったボリシェヴィキが、支持派非正規軍を好んでパルチザン称したため、この当時から日本でも共産主義と結びつけて使われることが多くなった。 沿海州中心にシベリアには多く高麗人住んでいて、ロシア国籍を持つものも多かった。彼らの中には徴兵独ソ戦戦った後に帰還しパルチザン部隊立ち上げる者もいた。 また、義兵闘争のころから沿海州逃れ独立運動くりひろげてきた朝鮮人亡命者多く、その一人である李東輝上海臨時政府国務総理になり、レーニンから資金援助得たこともあって、高麗人パルチザン抗日独立の旗をかかげていた。中でもイリアエルリアとも)率いサハリン部隊は、1920年大正9年)、尼港事件襲撃加わって有名になった。中国政府調べでは尼港事件における赤軍パルチザン4,300人のうち、朝鮮人が1,000人を占めていた。 もっともこの尼港事件により、日本における当時パルチザン一般的なイメージは、匪賊変わらないとする方向へ傾いた。 この時期ロシア領で生まれた高麗人だけではなく独立武装闘争志して新たに参入する朝鮮人多くその中で現役日本陸軍騎兵中尉ありながら脱走し1920年代前半、主にスーチャンパルチザン部隊率いて白軍戦った金擎天名高い。彼は直接日本軍戦ったわけではなかったが、状況からして赤軍協力することが独立闘争だと認識されていた。尼港ニコライエフスク)での日本人を含む民間人大量虐殺に見るように、暴虐な一旗組も多かった中で、擎天の率いパルチザン部隊は際だって規律正しく、この時期駐留日本軍との表だった軋轢避けたかった赤軍指導者賞賛をも受けていた。独立運動の闘士として、朝鮮半島内でも大きく報道されインタビュー記事載った

※この「シベリアの抗日パルチザン」の解説は、「抗日パルチザン」の解説の一部です。
「シベリアの抗日パルチザン」を含む「抗日パルチザン」の記事については、「抗日パルチザン」の概要を参照ください。

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