シベリアからの撤兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:12 UTC 版)
日本では、寺内内閣のときにロシア革命への干渉戦争として始められたシベリア出兵であったが、1921年のワシントン会議開催時点で出兵を続けていたのは日本だけであった。会議のなかで、全権であった加藤友三郎海軍大臣が、条件が整い次第、日本も撤兵することを約束した。こののち内閣総理大臣となった加藤は1922年6月23日の閣議で、この年の10月末日までの沿海州からの撤兵方針を決定し、翌日、日本政府声明として発表。撤兵は予定通り進められた。 加藤高明は日本のシベリア出兵について、「なに一つ国家に利益をももたらすことのなかった外交上まれにみる失政の歴史である」と評価している。
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