コロンビア共和国成立からボゴタ暴動までとは? わかりやすく解説

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コロンビア共和国成立からボゴタ暴動まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 19:36 UTC 版)

コロンビアの歴史」の記事における「コロンビア共和国成立からボゴタ暴動まで」の解説

こうして建国当初から自由・保守両党の対立続いたが、1894年ヌニェスが死ぬと再び両党の緊張高まった1899年にはラファエル・ウリベ・ウリベ(スペイン語版英語版将軍指導する自由党急進派による蜂起起こり1902年まで続く「千日戦争勃発したこの内戦でコロンビアはおよそ10万人の犠牲者出したといわれている。また、この戦争収まった後、かねてからパナマ欲していたアメリカ合衆国パナマ運河地帯永久租借案を、コロンビア上院拒否したことを受けてアメリカパナマ地峡独立派援助し1903年地峡地帯パナマ共和国として独立した千日戦争後に保守党のラファエル・レイェス(英語版)が大統領就任すると、独裁強化され保護貿易基づいて国内工業育成図られた。この路線1930年まで続いた保守党政権によって継承された。保守党政権1921年パナマ独立承認してアメリカ合衆国との問題解決した。これにより合衆国からの膨大な投資流れ込みそれまでイギリス資本から新たに合衆国資本への従属にが始まったユナイテッド・フルーツ社によるバナナ・プランテーションの建設が進むのもこの頃である。しかし、1929年世界恐慌が起こると、恐慌による経済不安定化受けて1880年から50年近く続いた保守党時代終焉した。また、1910年代からアンティオキア地方開発と発展進みコーヒー最大産地となったアンティオキア中心地メデジンは、ボゴタ抜いてコロンビア成長原動力となった 世界恐慌による経済不安定化受けて1930年にエンリケ・エラヤ・エレーラが労働者支持得て選挙勝利し自由党政権復活したエレーラ1932年9月コロンビア・ペルー戦争勝利し南部アマゾン国境レティシア領有権確保した1934年には自由党のアルフォンソ・ロペス・プマレホが大統領就任し部分的な土地改革などが行われた。プマレホはこの実績により1942年再選されるが、政策失敗して1945年辞任した。プマレホの政治農民労働者利益適ったのだったが、それは寡頭支配体制崩れる程のものではなかった。そしてそのような情勢の中現れたのがホルヘ・エリエセル・ガイタンだった。自由党員だったガイタン1928年ユナイテッド・フルーツ社によるバナナ労働者虐殺事件批判したことによりカリスマ的魅力発揮した政治家であり、ポプリスモ的なガイタン主義掲げてそれまで寡頭支配体制枠外置かれていた農民労働者学生から圧倒的な支持受けていた。

※この「コロンビア共和国成立からボゴタ暴動まで」の解説は、「コロンビアの歴史」の解説の一部です。
「コロンビア共和国成立からボゴタ暴動まで」を含む「コロンビアの歴史」の記事については、「コロンビアの歴史」の概要を参照ください。

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