コロンビア共和国成立からボゴタ暴動まで
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「コロンビアの歴史」の記事における「コロンビア共和国成立からボゴタ暴動まで」の解説
こうして建国当初から自由・保守両党の対立が続いたが、1894年にヌニェスが死ぬと再び両党の緊張は高まった。1899年にはラファエル・ウリベ・ウリベ(スペイン語版、英語版)将軍の指導する自由党急進派による蜂起が起こり、1902年まで続く「千日戦争」勃発した。この内戦でコロンビアはおよそ10万人の犠牲者を出したといわれている。また、この戦争が収まった後、かねてからパナマを欲していたアメリカ合衆国のパナマ運河地帯永久租借案を、コロンビア上院が拒否したことを受けて、アメリカはパナマ地峡の独立派を援助し、1903年に地峡地帯がパナマ共和国として独立した。 千日戦争後に保守党のラファエル・レイェス(英語版)が大統領に就任すると、独裁は強化され、保護貿易に基づいて国内工業の育成が図られた。この路線は1930年まで続いた保守党政権によって継承された。保守党政権は1921年にパナマの独立を承認してアメリカ合衆国との問題が解決した。これにより合衆国からの膨大な投資が流れ込み、それまでのイギリス資本から新たに合衆国資本への従属にが始まった。ユナイテッド・フルーツ社によるバナナ・プランテーションの建設が進むのもこの頃である。しかし、1929年に世界恐慌が起こると、恐慌による経済の不安定化を受けて1880年から50年近く続いた保守党の時代も終焉した。また、1910年代からアンティオキア地方の開発と発展が進み、コーヒーの最大産地となったアンティオキアの中心地のメデジンは、ボゴタを抜いてコロンビアの成長の原動力となった 世界恐慌による経済の不安定化を受けて1930年にエンリケ・エラヤ・エレーラが労働者の支持を得て選挙に勝利し、自由党政権が復活した。エレーラは1932年9月のコロンビア・ペルー戦争に勝利し、南部アマゾン国境のレティシアの領有権を確保した。 1934年には自由党のアルフォンソ・ロペス・プマレホが大統領に就任し、部分的な土地改革などが行われた。プマレホはこの実績により1942年に再選されるが、政策に失敗して1945年辞任した。プマレホの政治は農民や労働者の利益に適ったものだったが、それは寡頭支配体制が崩れる程のものではなかった。そしてそのような情勢の中現れたのがホルヘ・エリエセル・ガイタンだった。自由党員だったガイタンは1928年にユナイテッド・フルーツ社によるバナナ労働者虐殺事件を批判したことによりカリスマ的な魅力を発揮した政治家であり、ポプリスモ的なガイタン主義を掲げてそれまで寡頭支配体制の枠外に置かれていた農民、労働者、学生から圧倒的な支持を受けていた。
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