コルドバ攻略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 16:12 UTC 版)
「フェルナンド3世 (カスティーリャ王)」の記事における「コルドバ攻略」の解説
1233年1月、タイファの1人であるフードとイブン・アフマルが争い続けるのを尻目にウベダを包囲、7月に住民の退去を条件として降伏させた。1235年になってもフードとアフマルの抗争は続いていたため、フェルナンド3世はフードと同盟して1年間の休戦と貢納金(パリア)の430,000マラべディ(英語版)の支払いを取り付け、アフマルの支配下の領土を荒らしながら都市を落として回り、着実にレコンキスタを進めていった。 翌1236年1月、独自に行動していたキリスト教徒の一部隊がコルドバの郊外区を占領、アルバロやフェルナンド3世に救援を要請した。この時期は道路がほとんど通行不能で、コルドバ市民の反撃でキリスト教徒部隊が敗北する恐れや、フードがコルドバへの援軍に来る可能性も入れるとコルドバへの行軍は危険だったが、フェルナンド3世は行軍を決意するとコルドバへ急行、モリナ公や先に到着していたアルバロらと合流、コルドバ包囲戦(英語版)が始まった。コルドバ市民の必死の抵抗やフードの来援など包囲は危機を迎えたが、フードがコルドバを救援せず撤退したため危機を脱し、コルドバへの食糧補給停止とアフマルと結んだ同盟が功を奏し、住民の退去を受け入れコルドバを降伏させ、6月29日にコルドバ総督から鍵を受け取り翌30日に市内へ入城した。こうしてコルドバを奪取した。 戦後処理は手間取りフエロの授与は1241年までかかり、市内の所領分配や植民・食糧供給などに忙殺されたが、コルドバ陥落の意義は大きく他のグアダルキビール川流域の多くの町や要塞を奪回した。この征服で活躍したのは息子のアルフォンソ王太子(後のアルフォンソ10世)とアルバロで、1240年のアルバロ急死という痛手はあったが、王太子の方は順調に進み、コルドバに留まったフェルナンド3世は数十の都市と降伏文書を交わし、レコンキスタを一層推し進めていった。1238年にフードが殺害、遺族がフェルナンド3世に臣従したことや、勝者となったアフマルもまた協力者だったことも有利に働いた。同年、グラナダを支配下に収めたアフマルはナスル朝を開き(ムハンマド1世)、アンダルス南部を支配したが、フェルナンド3世との協力関係は続いた。
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