コドモの新聞
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1932年(昭和7年)6月1日から、新たに『コドモの新聞』の放送を開始した。これは、1928年(昭和3年)5月20日より、毎週日曜日の17時40分から20分間、大阪中央放送局が大阪ローカルの番組として放送した『コドモ日曜新聞』が前身で、時事・科学・スポーツなどのニュースから子供向けの話題を選び、分かり易く正しい言葉で放送していたが、好評だったことから、東京中央放送局より全国放送の形で放送開始する事になったものである。 童話作家の巖谷小波や久留島武彦、安倍季雄らが編集嘱託として加わり、「大人向け新聞の焼き直しになってはならない。」との考えに立ち、地方の放送局や通信社から提供を受けた素材から子供向けの内容を選んで、子供に分かり易く親しみやすい話し言葉に改めた上、担当者が原稿を読んだものをディクタフォン(英語版)に録音して再確認し、子供には分かり難い表現やアクセントを修正してから、放送に臨んだという。 放送初日の6月1日は、最初に帝国議会の話題を取り上げ、次にカナダ在住の日系人少年30人が、「軍用犬や軍鳩にご馳走をあげて下さい」と、25円を陸軍省に送った事、さらに京都市岡崎公園にあった動物園からライオンが逃げ、危険なためにやむなく射殺した話題などを放送した。 アナウンサーには、柔らかみと親しみのある話し手として、本職のアナウンサーではなく、東京中央放送局児童課の職員であった関屋五十二と、童話作家の村岡花子が選ばれ、1週間交代で担当した。1941年(昭和16年)11月28日の放送で、村岡は「一週間経ったら、またお話しましょうね。では皆さん、ごきげんよう、さようなら。」と挨拶し、放送を終えた。翌週は関屋の担当で、村岡の次の担当は12月8日からであったが、当日になって、情報局より「太平洋戦争開戦の大戦果を放送するのに、女性の声では意気が上がらない」との申し入れがあった為、急遽男性アナウンサーに担当が変更となり、村岡は子供たちに挨拶する事も出来ないまま、9年間担当した「コドモの新聞」を降板せざるを得なくなった。 一方の関屋は引き続き放送を担当したが、1943年(昭和18年)10月を以って退き、以後は放送局のアナウンサーが交代で担当することとなった。放送内容自体は、次第に戦争の話題一色になっていったが、子供に分かり易い放送内容にする努力は、番組終了まで変わらなかったという。
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