コッパーヘッド作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 15:20 UTC 版)
「M・E・クリフトン・ジェームズ」の記事における「コッパーヘッド作戦」の解説
詳細は「コッパーヘッド作戦(英語版)」を参照 1944年、ノルマンディー上陸作戦決行(D-Day)の7週間前、新聞を読み返していた連合軍の欺瞞作戦担当部局であるOps (B)(英語版)局長J・V・B・ジャービス・リード中佐は偶然ジェームズの写真を見つけ、彼がバーナード・モントゴメリー元帥とよく似ていることに気づいた。この情報を受け、MI5では彼を欺瞞作戦に利用することを計画したのである。ジェームズは陸軍映画班に勤務していたデヴィッド・ニーヴン中佐から、新しい映画に出演してもらいたいのでロンドンまで出頭するようにと連絡を受けた。この作戦は北フランスからドイツ軍の戦力を移動させることを目的としたより大きな欺瞞作戦の一環として展開された。 作戦には「コッパーヘッド作戦(英語版)」(Operation Copperhead, 「マムシ作戦」)のコードネームが与えられた。ジェームズはモントゴメリー元帥の幕僚たる肩書きが与えられ、元帥の話し方や癖、振る舞いなどを学ぶように命じられた。全く酒を飲まないモントゴメリーと対照的にジェームズは大酒飲みで、性格も全く異なっていたものの、コッパーヘッド作戦は継続された。ジェームズは作戦の一環として禁酒だけではなく禁煙も強いられ、また第一次世界大戦の戦傷で左手中指を失っていた為に義指が与えられた。 1944年5月25日、ジェームズはノーソルト空軍基地(英語版)からチャーチル首相の個人所有機に乗り込み、ジブラルタルへと飛んだ。そして元帥に扮したジェームズはジブラルタル総督官邸にて第303計画(Plan 303)と称される南仏侵攻計画について話し合った。直後、ドイツ側では第303計画に関する情報を得て、現地のエージェントに調査を命じている。さらにジェームズはアルジェに飛び、地中海戦線の連合軍司令官ヘンリー・メイトランド・ウィルソン(英語版)将軍と公の場で複数回接触した。その後、彼は秘密裏にカイロへと送られ、ノルマンディー上陸作戦に向けた準備が進められている間はそこで過ごした。作戦開始から5週間後、ジェームズは会計隊の職務に復帰した。 早期の作戦終了の理由については様々な推測が成されているが(例えばジェームズがジブラルタルで飲酒・喫煙を行なっていたのを目撃されたなど)、最も説得力があるのは自らも欺瞞作戦に従事していたデニス・ウィートリー(英語版)の説明である。彼は1980年代に発表した著書『The Deception Planners』の中でコッパーヘッド作戦に触れ、目的は達成され、作戦自体は成功したとしている。一方、作戦終了のきっかけは粗末なもので、つまりジェームズがアルジェのホテルで中隊向けのウィスキーのボトルを隠し持っていたことであったと説明している。また同書によれば、ジェームズは会計隊復帰後も5週間もの間「行方不明」となっていた理由について説明することができず、彼の軍歴に大きな傷が残る結果となった。
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