ゲーム機としてのM2
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「3DO M2」の記事における「ゲーム機としてのM2」の解説
3DO M2は3DO社によって、3DOインタラクティブ・マルチプレイヤーの拡張機器として1994年より開発がスタートした。開発コードネームは3DO II、あるいはBulldog、あるいはMark II Accelerator、あるいはM2 Acceleratorとも呼ばれ、最終的にM2が正式名称となった。3DOにM2アクセラレーターを取り付ける事によって、64bitゲーム機にアップグレードされる予定だった。 最終的には3DOの上位互換機として1995年1月に発表された。1995年度のE3では、M2用として開発中のレーシングゲーム(『IMSA Racing』)などのデモンストレーションがトリップ・ホーキンスによって行なわれた。1996年末頃までの発売が予定されていた。 1995年末、M2の権利は3DO端末の権利とともに松下電器産業に10億円とも100億円とも言われる巨額の金額で買収され、Panasonic M2となった。1996年にはM2のハードやソフトの開発などを担当する松下電器産業のゲーム部門としてパナソニック・ワンダーテインメント社が設立され、M2の最終的なスペックが確定された。M2の性能はSEGA Model3基板とほぼ同等、すなわち当時最も高性能な競合機であったNINTENDO64の約10倍の性能であると松下は主張していた(しかし後の飯野賢治の証言によると、それは誇大広告であった)。CPUは3DOのARM6からPowerPC602に変更されており、3DO端末との互換性はないが、既存の3DOユーザー向けにも何らかのアップグレード施策を取ることが約束された。ソフトウェアとしてはワープが「Dの食卓2」を開発中であることと、コナミおよびカプコンがアーケード基板としてM2のアーキテクチャを採用したことが公表された。パナソニック・ワンダーテインメントはM2の発売時期について明言しなかったが、1997年の4月から6月かけてと予想されていた。 1997年には松下とGoldstar(現・LG電子)からM2端末のプロトタイプも発表されたが、3DOの売上不振と競合機の爆発的普及に伴い、1997年6月、松下電器産業は家庭用端末としてのM2の発売を断念することを発表。1997年7月3日、M2の開発も断念する事が発表された。 結局M2用ゲームとしてタイトルが公表された唯一の作品となった「Dの食卓2」は、M2の販売延期および販売戦略の見直しに伴って何度も作り直しをする羽目になった挙句、1999年に「D2」としてドリームキャストでの発売となった。松下に煮え湯を飲まされつつもようやく「D2」の発売にこぎつけたワープの飯野賢治は、1998年にアメリカのゲーム雑誌Next Generation誌のインタビューでその喜びを語り、「ドリームキャストはM2の3-4倍の性能がある。M2はNINTENDO64の2-3倍の性能があったが、それ以上のものではなかった。それでも1996年-1997年にかけての時点では未だ高性能なマシンだったが」と証言した。 1997年から1998年にかけて、公約通りにコナミのアーケードゲーム基板「タランチュラ」として採用されたが、CD-ROMドライブの採用によるアーケードゲームとしては致命的なロード時間の長さなどから評価が低く、5本で採用されたに留まる。 コンシューマゲーム機としてはソフト・ハード共に発売されなかったが、「vizHouse」やキオスク端末などの業務用機器として販売されたハードが市場に存在しており、また対応ソフトとしてはレーシングゲーム『IMSA Racing』のベータ版が2010年に流出したため、一応ゲーム機として利用可能になった。
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