ケイ・ワン体制
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1992年10月4日、『格闘技オリンピックIII〜'92カラテワールドカップ』で、「"10万ドル争奪世界最強決定トーナメント"を来年開催する」と発表。後のK-1となる大会が初めて発表された。 1993年4月30日に第1回大会『K-1 GRAND PRIX '93 〜10万ドル争奪格闘技世界最強トーナメント〜』が開催され、8選手による無差別級トーナメントが行われた。 1995年にはアンディ・フグをメインイベンターに据えてK-1初の海外大会をアンディの母国であるスイス・チューリッヒのハレンスタジオンで開催。以後、2000年まで毎年同スタジアムで大会を開催し、同スタジアムの最多観客動員記録を更新。 1996年にはフジテレビの全国ネットとゴールデンタイム放送に進出。 1997年、「三大ドームツアー」と称してナゴヤドーム、大阪ドーム、東京ドームで大会を開催。特に東京ドームで開催されたK-1 GRAND PRIX '97 決勝戦は満員となる54,500人の観客を動員し、平均視聴率20.7%、瞬間最高視聴率27.3%を記録した。また、同年には日本人選手を主軸とする『K-1 JAPAN GP』シリーズを立ち上げた。 2000年には、『K-1 GRAND PRIX』シリーズを『K-1 WORLD GP』シリーズと改称し、北米、ヨーロッパ、豪州などで地区予選大会を開催するなど本格的に世界進出を開始。7月30日、「K-1 WORLD GP 2000 in NAGOYA」ではK-1の大会内でプロボクシング公式戦ヘビー級6Rマイク・ベルナルドVSジャスティン・フォーチュンを実施(1R無効試合、BoxRec記載)。石井は日本IBFと連携しマイク・タイソンや西島洋介のスカウトに動いた。 同年8月24日、「青い目の侍」「ミスターK-1」などと呼ばれ、スター選手の1人だったアンディ・フグが急性前骨髄球性白血病(APL)により35歳で死去。アンディと拳を交え、親交の深い選手やジムのメンバーのみならず芸能界からも哀悼の声が寄せられた。 2002年にはミドル級(-70 kg)部門の『K-1 WORLD MAX』シリーズを立ち上げる。また、2008年にはライト級(-60 kg)もMAX内にて新設された。中継局はTBSテレビ。 2002年にはグランプリへの出場選考が予選トーナメント優勝者から前年のベスト8ファイターに加えて、主催者推薦選手と世界最終予選トーナメント優勝者による99年以来の開幕戦制度が再導入される。そして、ジェロム・レ・バンナ、マーク・ハント、アーネスト・ホースト、ミルコ・クロコップら多くの主力選手が好調期を迎え、ゲーリー・グッドリッジやセミー・シュルトなどの総合格闘技「PRIDEを主戦場にする選手も高い適応力を見せた。さらに実力的に全盛期だったボブ・サップが派手なパフォーマンスと親しみやすいキャラクターで一般層への知名度も爆発的に急上昇したこともあってK-1人気は全盛期を迎える。 2002年8月28日、総合格闘技「PRIDE」を主催するドリームステージエンターテインメント(DSE)の全面協力のもと、国立霞ヶ丘競技場では初となる格闘技イベント『Dynamite!』を開催。日本国内格闘技大会史上最多観客動員記録となる91,107人を記録した。 同年12月7日に東京ドームで開催されたK-1 WORLD GP 2002 決勝戦ではチケット完売となる74,500人の超満員の観客動員。
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