クーリュール・デ・ボワの成り立ち
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「クーリュール・デ・ボワ」の記事における「クーリュール・デ・ボワの成り立ち」の解説
ヌーベルフランス初期においては、アルゴンキン諸族との関係は大事なものであった。フランス人たちは、地元の生活に欠かせない樺材のカヌーやトボガン、かんじきを作る方法や、トウモロコシやサトウカエデの育て方などをインディアンから学んだ。食肉も、当初はインディアンたちに依存していた。クーリュール・デ・ボワは、そもそもは、この、ヨーロッパ人とインディアンの仲介役だった。サミュエル・ド・シャンプランは、若者をインディアンと共に生活させて、言葉や生活様式を学ばせた。ヒューロン族と生活したエティエンヌ・ブリュレはその代表的存在である。この時代、毛皮交易での先住民は、他の植民地の原住民のように、搾取される存在ではなく、白人交易者と、インディアン女性との婚姻も認められていた。しかし、後にヒューロン族は、ヨーロッパからもたらされた天然痘や酒によって生活が破壊され、さらにキリスト教の受け入れによる内部分裂、また交易をめぐってのイロコイ連邦との対立によって弱体化し、クーリュール・デ・ボワが毛皮の採取を請け負うようになって行く。 クーリュール・デ・ボワは、北アメリカのあちこちを旅してはいたものの、浮浪者ではなく、毛皮交易に従事する事業者だった。彼らは、出身階層を問わず、大自然の誘惑に屈服した者たちで、小作農や、独立自営農民の退屈な仕事から逃れる手段としての冒険に誇りを持っていた。17世紀の終わりごろまでには、ヌーベルフランスでは、クーリュール・デ・ボワはかなり人数が多くなっており、1680年、アンタンダン(英語版)であるデュシュノーが、ヌーベルフランスで、すべての家族の息子、兄弟、伯父(叔父)または甥はクーリュール・デ・ボワであると推定している 。クーリュール・デ・ボワをいざなったのは、ただ冒険ができるという仕事であることや、あてもなく自由にうろつき回れることだけではなかった。厳しい宗教的義務を課す教会から、逃れたいという欲望も彼らを駆り立てた。その後、ケベックは独占的な毛皮交易を行ったが、彼らはそれを無視して、自らの力で仕事を仕切った。 クーリュール・デ・ボワは多くの技を持った冒険家であった。彼らはビジネスマンでもあり、熟練したカヌーのこぎ手でもあった。彼らの仕事には、漁業、かんじき作り、そして狩猟を含む一連のものが含まれており、インディアンたちに混じって行動するクーリュール・デ・ボワは、インディアンの一員のごとくふるまおうと努めた、そしてすぐに、森林での生活に必要なさまざまな技に秀でるようになった、それは、インディアンと比べても遜色がなかった。毛皮交易をするに当たって、インディアンは欠かせない存在だった。それというのも、インディアンたちは、北アメリカのフランス領、イングランド(イギリス)領、後にはアメリカから毛皮を持ってきて、フランスの交易所で取引し、クーリュール・デ・ボワに、交易のノウハウを与え、友情をはぐくんだからである。例えば、ラディソンと仲間たちは、内陸に住むインディアンたちと、ヨーロッパからの品物と引き換えに合意協定を結んだ。一方で、インディアンたちは、毛皮と引き換えにヨーロッパからの品物を受け取る時は、ラディソンたちを神のごとく崇拝した。というのも、こういった品物がインディアンたちに渡される時、クーリュール・デ・ボワたちは、堂々と気前良くふるまったからだったクーリュール・デ・ボワとインディアンたちの友情は、人種間結婚を生みだした 。
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