クレオールとは誰か?
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 10:18 UTC 版)
「フランス領ルイジアナ」の記事における「クレオールとは誰か?」の解説
18世紀中に7,000名のヨーロッパ人がルイジアナに移民したと想定されているが、これは大西洋岸のイギリス植民地人の数の100分の1に過ぎなかった。フランス人植民者についてみると、西インド諸島の方がルイジアナよりかなり多かった。大西洋を渡るには数ヶ月を要し、開拓者はその先も困難に挑戦しなければならなかった。生活条件は厳しいものがあった。何かを解決してもまた新たな厳しい環境と向き合わねばならなかった。多くの者が航海中あるいは到着してから間もなく死亡した。フランスでは経験したことのないハリケーンが繰り返し海岸を襲い、集落全体を破壊することもあった。ミシシッピ川三角州特有の不健康さ、つまり繰り返し見舞ってくる黄熱病がもう一つの植民地破壊要因であった。さらに、フランス人の集落や砦は攻撃的な敵からは必ずしも万全でなかった。孤立した開拓地に入った集団にとって、インディアンの攻撃は現実的な脅威であった。1729年のナチェズの攻撃はローワー・ルイジアナで250名が殺された。ナチェズ族インディアンの部隊がロザリー砦(現在のミシシッピ州ナチェズ)を急襲し、開拓者を殺害し、中でも妊婦まで殺した。フランスがその後2年間に取った反応は、ナチェズ族を逃がすか奴隷としてサン=ドマングに強制移住させるかであった。 植民地人はフランスの港やパリで志願者を集めた、多くは若い男性であった。多くの者が年季契約の奉公人であり、契約書で定められた年限をルイジアナに留まることが求められた。この期間は「一時的な奴隷のようなもの」であった。植民地の人口を増やすために若いフランス女性が植民地に送られそこの兵士と結婚し、国王が手配した持参金を与えられた。売春婦、路上生活者、法を犯した者、あるいは家族のいない女性が「国王の親書」を持ってルイジアナに行くことを強制された。特にルイ15世治世初期の摂政時代はこれが甚だしかった。これら女性の話が、1731年にアベ・プレヴォーによる小説「騎士デ・グリューとマノン・レスコーの物語」に結実した。フランス領ルイジアナにはスイス人やドイツ人開拓者の社会もあった。しかし、王室の役人は常に人口を著すときに「ルイジアナ人」とはせず、「フランス人」とした。七年戦争の後は、様々な集団の到着で人口が増え、より多くの人種・民族が混じり合う形になった。スペイン人開拓者、サン=ドマングからの逃亡者(特に1791年以降)、フランス革命の敵対者、およびケイジャンであった。1785年、アカディア出身の人々1,633名がフランスからニューオーリンズに連れてこられた。イギリスから母国を追われて30年後のことであった。他にも独自のやり方でルイジアナに流れてきたアカディア人がおり、約4,000名が入植したと考えられている。
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