クライ EP 「ホエール」「ブリード」(1993年 - 1995年)
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「カタトニア (ウェールズのバンド)」の記事における「クライ EP 「ホエール」「ブリード」(1993年 - 1995年)」の解説
バンドはクライ・レコードと契約したため、ジェンキンスとプライスは他のプロジェクトのためにバンドを去った。マインは、ダヴィズ・エヴァンにドラムスとしてマシューズ達に協力するように手配した。エヴァンは、かつてロバーツが所属していたア・カリフと共演したことがある人物である。カタトニアと名前を短くしたバンドの新メンバーの1人は、ア・カリフの元メンバーであるベーシストのポール・ジョーンズである。もう1人の新メンバーは、キーボードのクランシー・ペッグで、ロバーツとマシューズの友人である。マインは、カタトニアがウェールズ語のテレビに出演できるよう、カーディフのライヴから遠ざけるように努めた。そして、ドイツにてパンク・ロック・バンドである Anrehfn のサポート・バンドとして、初めての海外ギグを行った。カタトニアは政党プライド・カムリが1993年8月にビルス・ウェルスで開催したウェールズ語コンサートにヘッドライナーとして出演したが、バンドはウェールズ語と英語で演奏を行っている。 バンドはクライと契約していたが、これらはすべてバンドが自身でプロモーターとしての役割を果たした。マインが準備をしたのは、カタトニアが契約2ヶ月後にEPを録音することを提案したときだけである。「フォー・ティンカーベル」(For Tinkerbell) と名付けられたEPのカバー写真は、ロバーツとマシューズのハウスメイトであるローランド・ダフィスによって撮影された。マインはラジオプレゼンターのマーク・ラドクリフにレコードを送ってBBCラジオ1でのエアプレイに成功した。ジャーナリストのイエスティン・ジョージがこれを聞き、雑誌NMEに今週のレコードというコラムで特集した。「フォー・ティンカーベル」には複数の曲が収録されていて、その中に「スウィート・カタトニア」も含まれる。マシューズはEPに録音するため歌を歌うのが好きである傍ら、ライヴで生演奏するのが苦手だと感じたと後に説明している。彼らはナースリー・レコードと契約してシングル「ブリード」(Bleed) を発表した。カタトニアの最初の全国紙でのインタビューが、「フォー・ティンカーベル」発表後にメロディー・メーカーにより行われている。 彼らは、プー・スティックスのリード・シンガーであるヒュー・ウィリアムスの助言に従い、EPの宣伝のために初めてロンドン・ギグを開催した。カーディフとバーミンガムでギグを行った後、1993年11月13日にストーク・ニューイントンのパブで初のロンドン公演が行われた。さらに、ウェールズのラジオとテレビに出演した。ジョージがインタビューのために来たとき、マシューズはバンドのマネージャーになることを誘ったが、ジョージは経験がないことを理由に丁重に断った。バンドは、ラジオ・ウェールズで出会ったプロデューサーのケン・ネルソンとともに、1994年2月19日と20日にグウィネズで EP「Hooked」を録音した。バンドはカーディフからの移動中に昼間から飲んでいて、ステージに出る直前にはコカインを服用していた。結果として、ロバーツが後に後悔するようなパフォーマンスを披露してしまった。ツアーでは収入を得ることができず、翌日にキングストン大学のギグで50ポンドを得たのみだったため、マシューズは後にカーディフへ帰る途中のセバーン橋の通行料を払うことができずファンから金を借りたことを語っている。 バンドは帰国後、ジョージの紹介でMRMマネジメントのリチャード・ローをマネージャーとして契約した。5月には「Hooked」の宣伝のためウェールズのテレビに出演したが、ニューポートでのライヴでは酔った状態で演奏してしまった。MRMはバンドを5月の2週目に短期間のフランス・ツアーに行かせて、その後サラドというバンドの全英ツアーのサポート・アクトを務めた。7月2日にウェールズの音楽祭に出演した際には、マシューズが警備員に止められてしまい、バンドのファンである俳優のリス・エヴァンスの仲介がなければ出演できなかったかもしれないトラブルに見舞われる出来事があった。 バンドとクライの契約が終了し、マインはバンドから去った。その数週間後に、MRMはペッグをバンドから外そうと考え、それをマシューズ経由で通達した。ペッグは狼狽してメディアに語るのを拒否した。バンドは、ラフ・トレード・レコードから新シングル「ホエール」(Whale) を1994年9月に発表した。「ホエール」は「フォー・ティンカーベル」と同様、NMEの今週のレコードに特集された。バンドは2つの話題でメディアに登場していた。1つはロンドンへの移動中の電車で乗務員とパンク・ロックについて口論してスウィンドンで追い出されたことで、もう1つはカムデン区のクラブでウェールズ語で警備員を罵り追い出されたことである。次のシングル「ブリード」は11月に収録され、1995年2月にナースリー・レコードから発表された。元ラフ・トレード・レコードで、ワーナー・ブラザース・レコードの子会社であるブランコ・イ・ネグロ・レコードのジェフ・トラヴィスは、バンドに35万ポンドで契約を持ち掛け、バンドは順当にサインした。
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