カトリーヌ・ド・メディシスの寛容政策とヴァシーの虐殺
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「ユグノー戦争」の記事における「カトリーヌ・ド・メディシスの寛容政策とヴァシーの虐殺」の解説
1560年12月、フランソワ2世が死去し、弟のシャルル9世が即位。王太后カトリーヌ・ド・メディシスが摂政となる。経験不足とヴァロワ・ハプスブルク戦争の借財のため、カトリーヌは強力な私軍を有する貴族たちの激しく対立した利害関係を慎重に舵取りをせねばならないと感じた。彼女は敬虔なカトリックであったが、強大なギーズ家を牽制するために、ユグノーの盟主であるブルボン家を優遇してナバラ王アントワーヌを国王総代官(Le lieutenant-général)となし、コンデ公ルイに特赦を与えた。また、彼女は協調派の大法官ミシェル・ド・ロピタルを重用した。ロピタルは市民の平和のための幾つかの手段を提案し、神聖会議による宗教的解決を主張していた。 1561年1月に摂政カトリーヌはオルレアン寛容勅令を出すが、これに反発したギーズ公フランソワがアンヌ・ド・モンモランシー、ジャック・ド・サンタンドレと三頭政治を結成して反動政策に乗り出す。 同年8月に司教会議がユグノーと話し合うようにとの王家から要請を受け入れて、サン=ジェルマン=アン=レー三部会の中で宗教会談が開かれた(ポワシー会談)。プロテスタントはテオドール・ド・ベーズを長とする12人の牧師と20人の平信徒が代表となった。双方とも相手を受け入れようとはせず難航したが、新たな統一の基礎となりうるある程度の一致に達した。ベーズとギーズ家のロレーヌ枢機卿との会談で、礼拝様式に関して両者の妥協がなされるかに見えたが、10月の最終会談でカトリックとプロテスタントとの思想の溝は既に大きく広がってしまっていることがはっきりした。 1562年の初めに摂政政府は、宮廷内の党派争いに扇動された地方の無秩序を抑えるべく、サン・ジェルマン勅令(1月勅令)を発した。勅令は反乱を回避するためにユグノーに譲歩をし、城壁外および屋内での礼拝を容認していた。だが、3月1日、シャンパーニュのヴァシーでギーズ家の郎党が礼拝をしていたカルヴァン派を襲撃し、虐殺する事件が発生してしまう(ヴァシーの虐殺)。ユグノーのジャン・ド・フォンテーヌは次のように述べている。 「ギーズ公がやって来た時、プロテスタントたちは勅令に従って城壁の外で礼拝を行っていた。何人かの従者が礼拝者たちを侮辱すると喧嘩沙汰になり、そこで偶然に公自身が頬に傷を受けてしまった。公の流血を見た従者たちは激昂しヴァシーの住民に対する虐殺が起こった。」
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