カトリーヌドメディシスの寛容政策とヴァシーの虐殺とは? わかりやすく解説

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カトリーヌ・ド・メディシスの寛容政策とヴァシーの虐殺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 05:31 UTC 版)

ユグノー戦争」の記事における「カトリーヌ・ド・メディシスの寛容政策とヴァシーの虐殺」の解説

1560年12月フランソワ2世死去し、弟のシャルル9世即位王太后カトリーヌ・ド・メディシス摂政となる。経験不足とヴァロワ・ハプスブルク戦争借財のため、カトリーヌ強力な私軍有する貴族たちの激しく対立した利害関係慎重に舵取りせねばならない感じた。彼女は敬虔なカトリックであったが、強大なギーズ家牽制するために、ユグノー盟主であるブルボン家優遇しナバラアントワーヌ国王総代官(Le lieutenant-général)となし、コンデ公ルイ特赦与えたまた、彼女は協調派の大法官ミシェル・ド・ロピタルを重用したロピタル市民の平和のための幾つかの手段提案し神聖会議による宗教的解決主張していた。 1561年1月摂政カトリーヌオルレアン寛容勅令を出すが、これに反発したギーズ公フランソワアンヌ・ド・モンモランシー、ジャック・ド・サンタンドレと三頭政治結成して反動政策乗り出す同年8月司教会議ユグノー話し合うようにとの王家から要請受け入れてサン=ジェルマン=アン=レー三部会の中で宗教会談開かれたポワシー会談)。プロテスタントテオドール・ド・ベーズを長とする12人の牧師20人の平信徒が代表となった双方とも相手受け入れようとはせず難航したが、新たな統一基礎となりうるある程度一致達した。ベーズとギーズ家ロレーヌ枢機卿との会談で、礼拝様式に関して両者妥協なされるかに見えたが、10月最終会談カトリックとプロテスタントとの思想の溝は既に大きく広がってしまっていることがはっきりした1562年初めに摂政政府は、宮廷内の党派争い扇動され地方無秩序抑えるべく、サン・ジェルマン勅令1月勅令)を発した勅令反乱回避するためにユグノー譲歩をし、城壁外および屋内での礼拝容認していた。だが、3月1日シャンパーニュヴァシーギーズ家郎党礼拝をしていたカルヴァン派襲撃し虐殺する事件発生してしまう(ヴァシーの虐殺)。ユグノーのジャン・ド・フォンテーヌは次のように述べている。 「ギーズ公がやって来た時、プロテスタントたちは勅令に従って城壁の外で礼拝行っていた。何人かの従者礼拝者たちを侮辱する喧嘩沙汰になり、そこで偶然に自身が頬に傷を受けてしまった。公の流血見た従者たち激昂しヴァシー住民対す虐殺起こった。」

※この「カトリーヌ・ド・メディシスの寛容政策とヴァシーの虐殺」の解説は、「ユグノー戦争」の解説の一部です。
「カトリーヌ・ド・メディシスの寛容政策とヴァシーの虐殺」を含む「ユグノー戦争」の記事については、「ユグノー戦争」の概要を参照ください。

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