カトリックにおけるイスラーム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 16:16 UTC 版)
「キリスト教とイスラム教」の記事における「カトリックにおけるイスラーム」の解説
『ノストラ・エターテ(英語版)』(キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言)が最初に立案された時も、第2バチカン公会議が開催された時点でも、イスラームは問題とされていなかった。しかし、ユダヤ教の問題と同様、いくつかの出来事がきっかけとなって、イスラームの問題も考慮を促されるようになった。1963年の第2会期までには、この課題を含む議題提案が中東の司教から挙げられ始めていた。質問が全く挙がっていないという立場をとるか、質問されればムスリムについていくらかは言及するという立場をとるかが問題であった。メルキト派カトリック教会の総主教マクシモス4世は、後者の立場をとる人々のうちの1人であった。 1964年初め、ベア枢機卿は、会議の調整委員会長であるチコニャーニ枢機卿に、会議に参加した神父らが一神教、特にイスラームについて発言許可を求めていると通告した。しかしこの議題は、ベア枢機卿のキリスト教一致推進評議会(英語版)が扱う範囲を超えると思われた。ベア枢機卿は「適任者を選出して彼らとともに草案を作成する」という案を調整委員会に提示した。4月16日、17日に行われた調整委員会の会議で、チコニャーニ枢機卿はムスリムについて話をする必要性を認めている。 第1会期の終了後、第2会期の開始までに、ヨハネ23世からパウロ6世へと教皇座が移った。パウロ6世は、イスラーム学者ルイ・マシニョンがイスラームとキリスト教の架橋となるべく活動していた運動バダリヤの会員だった。パウロ6世がマクシモス4世が推進する道を進むことを選択した結果、2つの異なる文書にムスリムについて記述が割かれることとなった。そのうちの1つが『ノストラ・エターテ』第3章であり、もう1つが『教会憲章』第16節である。 最終段階の草稿には、マシニョンの影響が色濃く現れている。例えばマリアに言及した部分は、モンシニョール・デスコフィの干渉により生じた。彼はラテン系のスミュルナ大司教で、スミュルナのマリア信仰を復活させる際にマシニョンと共同で働いた経験がある。ムスリムの祈りを称賛したのは、バダリヤの影響を反映しているのかもしれない。 カトリック教会は一神教信者でもあるムスリムもまた救済の計画には含まれていると、第2バチカン公会議において結論付け『教会憲章』を通して明言している。
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