オドールと日本球界
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 23:13 UTC 版)
「レフティ・オドール」の記事における「オドールと日本球界」の解説
オドールが本土アメリカよりも日本で著名なのは、日本のプロ野球と浅からぬ縁を持っているからである。 1934年(昭和9年)12月に、現存するプロ野球チームとして最古の球団「大日本東京野球倶楽部」が結成されたが、相手となるチームがいなかったため、1935年(昭和10年)、同球団はアメリカ遠征を行った。最初に訪れた地・サンフランシスコでシールズを率いていたオドールは、対戦相手にチームのニックネームがないことに気づき、大日本東京野球倶楽部のマネージャーをしていた鈴木惣太郎に、ニックネームをつけることを提案。その一案として、当時全米でヤンキース、ドジャースと人気を分け合っていたジャイアンツを提案し、鈴木もその案をチームに持ち帰り、了承される。大日本東京野球倶楽部は1935年(昭和10年)のアメリカ遠征を「東京ジャイアンツ」というニックネームで行うこととなった。そして、1936年(昭和11年)に日本で開始された本格的な職業野球では「東京ジャイアンツ」が参加することになったのである。また、日本側のアメリカ遠征の際、日本選手でありながら当時無国籍であったヴィクトル・スタルヒンのアメリカ入国の許可を得るために奔走した。 また、オドールは選手時代にもメジャーリーグ選抜チームの一員として2回訪日している(1931年・ロビンス、1934年・ジャイアンツ)。 さらに、オドールと日本のつながりを示す話として最も語られるのが1949年(昭和24年)の訪日である。当時オドールはサンフランシスコ・シールズの監督として訪日し、急遽当時の日本プロ野球のスタープレーヤーで結成された全日本チームとの対戦巡業を行ったが、どの試合も完膚なきまでに全日本チームを圧倒し、しかもそれがアメリカのトップリーグのチームではないという事実に、日本の野球ファンは大きな衝撃を受けた。しかし、巡業の合間には野球教室を開いたり、日本の人々との交流を決して忘れなかった。この、本場アメリカのプロ野球に触れる機会は、大相撲力士ながら自らの草野球チームを持つほどの野球好きだった横綱前田山が飛び入りで参加するなど、話題となった。しかし、当時の前田山は病気を理由に休場中で、それにも関わらず遊びとも言える行動をとっていた事が問題視され、引退に追い込まれてしまう、という逸話まで残した。 1951年(昭和26年)、今度はメジャーリーグ選抜チームの監督となって4度目の訪日(メジャーリーグ選抜で、ジョー・ディマジオは最後のユニフォーム姿を披露することになる)をしたオドールは、全国各地で「オドールさん」と野球ファンに親しまれたという。
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