オナイダ・キャリーイング・プレースとは? わかりやすく解説

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オナイダ・キャリーイング・プレース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 08:58 UTC 版)

ローム (ニューヨーク州)」の記事における「オナイダ・キャリーイング・プレース」の解説

ローム五大湖カナダからモホーク川ハドソン川経由して大西洋に至るインディアン交易ルート沿って設立された。このルートは「オナイダ・キャリーイング・プレース」、あるいは、シックスネーションズイロコイ族、ハウデノソーニー)の言語で「大きな運ぶ場所」を意味する「デオ・ウェイン・スタ」と呼ばれていた。このような名前は東のモホーク川と西のウッド・クリークの間にある陸路言っており、それはオンタリオ湖通じていた。それはオンタリオ湖からハドソン川下流まで1,000マイル (1,600 km) 以上ある交易水路の中で唯一の陸路を通る短い区間であり、現在のオナイダ市域内にある。ハドソン川からモホーク川遡って来た旅人交易業者は、季節によって1.7マイル (2.7 km) ないし6マイル (9.6 km) の陸路を、荷物と船を運び、西のオンタリオ湖への行程続ける必要があった。 七年戦争北アメリカ前線となったフレンチ・インディアン戦争の時、この地域では多く戦闘があった。イギリスの植民地人はオナイダ・キャリーイング・プレースを守るため、さらに魅力ある毛皮交易カナダからのフランス人侵害からまもるために、幾つか小さな砦を建設した。しかし1756年ブル砦の戦いでは、フランス軍正規兵、カナダ人および同盟インディアン混成軍がイギリス軍圧倒し虐殺した1758年後半イギリス地域守り強化しよう何度試みむなしく終わった後で大部隊を送ってオナイダ・キャリーを確保し防壁築いてスタンウィックス砦と名付けたイギリスはこの戦争フランス破った後でミシシッピ川以東領土奪った1768年のスタンウィックス砦条約締結してイロコイ族に対してこの地域保護しようとした。「イギリス人インディアン関係史最悪クラス条約」とも言われてきた.。また「アパラチア山脈の西に秩序を創り出すためのイギリスによる最後捨て身努力」とも言われた。戦後イギリスは砦を放棄し、砦は朽ちて最終的に崩壊し、その部品開拓者達が使った1776年大陸軍アメリカ独立戦争戦略的な目的で砦の再建決めた独立戦争後再度放棄され壊された。今日では覆われた土の塚が残っているだけである。

※この「オナイダ・キャリーイング・プレース」の解説は、「ローム (ニューヨーク州)」の解説の一部です。
「オナイダ・キャリーイング・プレース」を含む「ローム (ニューヨーク州)」の記事については、「ローム (ニューヨーク州)」の概要を参照ください。

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