エンデュアランス号の漂流と座礁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 11:27 UTC 版)
「帝国南極横断探検隊」の記事における「エンデュアランス号の漂流と座礁」の解説
海氷のため航行不能という状況は、今となっては絶望的に見えるかもしれないが、後にシャクルトンが書いたものに拠ると、彼は船が動けないことは当初深刻に捉えていなかった。彼は船を取り巻く氷が問題になるかも知れないとわかっていた。しかしその一方で極地の船が氷に閉ざされても、最後は解放されることも割とよくあると知っていた。初めの頃シャクルトンが唯一悔やんでいたのは、南極の次の春に陸上探検を開始する際にもっと都合がよかろうと思われる場所へ、船を早いうちに泊めておかなかったことだった。 しかし「潮流は船を確実に氷と一緒に西か北へと押しやる」と思われた。ほどなくそうした懸念は現実のものとなった。氷に閉ざされている間、エンデュアランス号の船長フランク・ワースリーが海図に記録していた探険の進路(下の地図参照)によると、船は2月には僅か数マイル流されただけだったのに、それ以後の流氷は北上を速め、エンデュアランス号をルイトポルド海岸から遠くへ遠くへと引き離した。このためシャクルトンは次の季節に大陸を横断するという野望は早々に捨てた。しかし、最後には戻るという望みを抱いていた。 1915年5月、南極の太陽が冬前最後となる日没を迎え、エンデュランス号を閉じ込めていた浮氷の広さは、その時点でおよそ数平方マイルに広がっていた。当初は冬が緩むか最悪でもウェッデル海の北端まで流される頃には氷は割れるだろうと推測されていた。しかし南極の春が近づき、やがて実際に訪れるにつれて、氷から解放されるのはそれほど容易では無いことが明らかになった。 氷が割れるにつれて、巨大な浮氷はばらばらになっては集まることを繰り返し、乗組員の力ではどうにもできない巨大な力で押し寄せてきた。早くも7月には、シャクルトンは船長のワースリーに、エンデュアランス号は氷から脱出する前に壊されてしまうに違いないと伝えた。エンデュアランス号は当時の極地船としては大変頑丈に出来ていた。しかし10月24日、船の右舷は大きな浮氷に強く押し付けられた。氷による船体側面への圧力は増大し続け、ついに船体は曲がって裂け始めた。続いて氷の下から海水が船へ流れ込んできた。船の肋材が折れた時は物凄い音が立ち、後に乗組員は「大きな花火の爆発と砲撃」のようだったと述べた。その後乗組員は海水をポンプで排出しようと休まず試みたが、数日後の10月27日にはシャクルトンは船の放棄を決断した。 その後の数週間のうちに、乗組員達は船から出来る限りの物を運び出した。当初は置き去りにされた写真やカメラがこの時に運びだされたことは特筆すべきことである。一部が浸水し氷に圧迫され続けていた船は、もはや沈没を逃れられないのは明らかだった。そして1915年11月21日、南緯69度00分、西経51度30分の地点において、エンデュアランス号は氷の下へ沈んでいった。 エンデュアランス号の船体は2022年3月、フォークランド海洋遺産財団の調査チームが、沈んだ場所から数キロメートル離れた、南極半島東方の深度3008メートルの海底で発見された。
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