エステ家とは? わかりやすく解説

エステ家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 09:39 UTC 版)

フェラーラ」の記事における「エステ家」の解説

1146年、アデラルディ家最後の主グリエルモ2世アデラルディが死ぬと、その財産は姪マルケセッラの夫オビッツォ1世デステへと継承された。その後新たに入ってきたエステ家と地元貴族らの軋轢表面化する。オビッツォ2世デステ1264年民衆の支持得てフェラーラ正式に自身シニョリーアとした。1289年にはモデナシニョーリ選ばれ、翌1290年にはレッジョ領主にもなった。 1393年フェラーラとなったニッコロ3世・デステローマ教皇重用された。特にエウゲニウス4世フェラーラ公会議開催した。ニッコロ3世の子ボルソ・デステ1452年に、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世は、帝国封土としてボルソをモデナレッジョの公とした。1471年、ボルソは教皇パウルス2世によってフェラーラ公とされ、フェラーラ公国成立したエルコレ1世・デステヴェネツィア共和国とのフェラーラ戦争イタリア語版英語版)(1482年 - 1484年)に参加して敗北したが、1484年に「バニョーロの和議」(イタリア語: Pace di Bagnolo)を締結することに成功して町の破壊免れたため、フェラーラはさらに繁栄していく。エルコレ1世は、メディチ家以後15世紀後半から16世紀前半にかけての芸術後援者一人であり、フェラーラは特に音楽名声高い文化都市となったフェラーラヨーロッパ各国から音楽家集まってきた。ジョスカン・デ・プレ宮廷働きヤーコプ・オブレヒト2度フェラーラ訪問したアントワーヌ・ブリュメル1505年以後宮廷第一音楽家であった。エルコレ1世の子アルフォンソ1世・デステ同様に音楽家保護した。彼は器楽曲好んだので、フェラーラではリュート盛んになった。 アルフォンソ1世ボルジア家ルクレツィアを妻に迎えヴェネツィアとの戦い続行しこれに勝利した1509年に彼は教皇ユリウス2世から破門されるが、1512年ラヴェンナ包囲戦勝利している。エルコレ2世・デステフランス王ルネ結婚彼の時代もさらに繁栄続いた1559年に公位についたアルフォンソ2世・デステは、トルクアート・タッソ哲学者チェーザレ・クレモニーニの後援者として知られる。彼はフェラーラ地位最高に高めた人物であったが、3度の結婚嫡子を残すことができず、1597年教皇クレメンス8世によってコマッキオ同様に後継者不在封土返還要求されることになる。庶系フェラーラ公チェーザレ・デステ教皇と皇帝ルドルフ2世認めず1598年フェラーラ公国教皇領となった1796年フランス占領されチスパダーナ共和国一部となり、翌年にはチザルピーナ共和国となったフランス撤退後教皇領戻り1859年サルデーニャ王国併合された。

※この「エステ家」の解説は、「フェラーラ」の解説の一部です。
「エステ家」を含む「フェラーラ」の記事については、「フェラーラ」の概要を参照ください。

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