エスタド・ノヴォ体制の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 10:16 UTC 版)
「アントニオ・サラザール」の記事における「エスタド・ノヴォ体制の確立」の解説
詳細は「エスタド・ノヴォ」を参照 サラザールの非常に保守的な権威主義体制はエスタド・ノヴォ、いわゆる新国家体制と呼ばれる。サラザールの政権の基礎は社会の安定であった。社会の安定が財政の安定、そして成長をもたらすとしたのである。第一共和政期の混乱を目の当たりにした国民にとっては目覚しい進歩と受け止められた。この頃サラザールへの支持率は最高潮に達し、このポルトガルの変革は「サラザールの教訓」という政府方針の下行われた。教育、特に高等教育は重視されず、投資は少なかったが、初等教育は全ての国民に与えられており、教育インフラにはしっかりと投資が行われ、多くの学校がつくられた。今日でもエスタド・ノヴォ体制下に作られた学校が多く活動しているが、体制下でのポルトガルの識字率は西欧最高レベルとなった。 1933年にドイツとイタリアから顧問を招聘し、国家防衛警察(PIDE)と称する秘密警察を創設した。共産主義者・社会主義者(社会民主主義者)・自由主義者・フリーメイソン・サラザールの個人的な政敵勢力に対する手段としてはこのゲシュタポを模して組織されたPIDEが用いられ、ポルトガル軍団と共に反体制派への弾圧に猛威を揮った。この秘密警察は当初、国家防衛秘密警察、PVDE(Polícia de Vigilância e Defesa do Estado)と呼ばれ、1945年以降は秘密警察PIDE(英語版)となった。 「人民独裁を基礎とする新国家」を標榜したエスタド・ノヴォ体制下では、1822年から1926年まで続いた議会制民主主義は敵視され、既存の労働組合が解体された後、ポルトガル国民は農業・漁業・商工業・運輸業などの職能組合に組織され、工業が未発達の農村的国家を教会と伝統的な身分制中間層が支配するコルポラティズモ体制が建設された。サラザールの支持基盤はカトリック教会、軍部、銀行家、大地主であった。また、サラザールは無政府主義政党を禁止した。サラザールの率いる国家連合党は体制のために存在する政党で、体制のイデオロギー以外が差し挟まれる余地はなかった。 1936年1月にサラザールはそれまでの首相、財務相に加え、外務相、陸軍相、海軍相のポストを兼任し、体制を確立した。同年勃発した隣国のスペイン内戦では、ホセ・サンフルホ将軍の共和国への反乱を支援して2万人の義勇軍を派遣した。また、フランシスコ・フランコ将軍率いる反乱軍に武器を援助した。 1940年にはローマ教皇庁と政教協定(コンコルダート)を結んだ。サラザールの政治哲学はカトリックの教義に基づいており、経済政策もカトリックに影響を受けているようである。また、同時代の政治指導者ではヒトラーやムッソリーニよりも、オーストリアのエンゲルベルト・ドルフース政権に似通っているとも評される。
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