イースト・アングリア、ウェセックス、ノーサンブリア
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「オファ (マーシア王)」の記事における「イースト・アングリア、ウェセックス、ノーサンブリア」の解説
イースト・アングリア王国ではベオナ(英語版)が、おそらく758年には王となっていた。ベオナはオファよりも先に貨幣鋳造を行っていた王で、このことはイースト・アングリアがマーシアから独立していたことを示唆する。その後のイースト・アングリアの歴史については不明な部分が多いが、779年にエゼルベルト2世(英語版)が王となり、独自の硬貨を発行するなどある程度マーシアから独立した関係であったことが伺える。『アングロサクソン年代記』794年の項には「王オファは王エゼルベルトの首を刎ねるよう命じた」との記述がある。オファは790年代初めにイースト・アングリアでペニー貨を鋳造しており、おそらくはエゼルベルトがオファに対して叛乱を起こし、その結果として斬首されたものと見られている。エゼルベルトはオファの妻キュネスリスの謀略によって殺害されたとする資料も残っているが、これらの最初期の写本は11世紀から12世紀のもので、近年の歴史家は史実とみなしていない。エゼルベルトはサットン・セント・マイケル(Sutton St. Michael)で殺害され4マイル(6km)南のヘレフォードに埋葬されたとする言い伝えもあり、ヘレフォードではエゼルベルトを崇拝するものたちが増え一時はカンタベリーに次ぐ巡礼地となった。 マーシアの南にあるウェセックス王国では757年にキュネウルフが王位に就きマーシア王エゼルバルドが侵略した国土の大半を奪還した。オファは779年のベンジングトンの戦い (Battle of Bensington) (於オックスフォードシャー)でキュネウルフを破りテムズ川沿いの領地を取り戻した。内容の確かな勅許状においてこの年より前にキュネウルフがオファに従属していたことを示すものはなく、またオファがキュネウルフの大君主(overload)であったとする形跡もない。786年、キュネウルフが暗殺された後、オファの介入によりベオルトリッチがウェセックス王となった。ただし、この介入がなかったとしても、ベオルトリッチがオファをある程度自分の大君主として認識するまで時間はかからなかったものと見られている。オファの硬貨はウェセックス中で使用され、ベオルトリッチが自らの硬貨を鋳造したのはオファの死後からであった。789年、ベオルトリッチはオファの娘エアドブルフ (Eadburh) と結婚。年代記の記述によれば二人の王は共同でエグバートをフランク王国に「3年間」追放し「ベオルトリッチはオファを助けた。なぜなら彼の娘を王妃に迎えていたからだ。」。なお年代記の「3年間」という記述は「13年間」の誤り、すなわちエグバート亡命は789年から802年まで続いていたとする歴史家もいるが、この解釈には異論もある。アルフレッド大王の伝記を著した9世紀の修道士アッサーはエアドブルフについてこう書き残した。アッサーによればエアドブルフは「国中ほぼすべてに及ぶ権力を持ち」「彼女の父親がそうであったように、あたかも暴君のごとくふるまうようになった。」エアドブルフがどんな権力を行使したにせよ、それが宗主である父オファに由来するものであったことは間違いない。 仮にオファが779年にキュネウルフを下すまでウェセックスで優位な立場を得られなかったのだとすると川の南側での成功は、南東部への介入に必要な前提条件だったのかもしれない。この説は、一部の歴史家の説のとおりオファは764-765年以降ケントに対する支配権を確立していなかったことにもなる。この説は一部の歴史家が信じているように、オファが764-65年以降のケントを支配していなかったことも前提としている。 792年オファの娘エルフレダ (Ælfflæd of Mercia) とノーサンブリア王エゼルレッド1世 (Æthelred I of Northumbria) がキャタリック (Catterick, North Yorkshire) で結婚し、オファの軍事同盟はノーサンブリア王国まで拡大した。ただし、オファ治世においてノーサンブリアがマーシアに従属した形跡はない。
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