インド亜大陸での遠征活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/18 16:30 UTC 版)
「アラー・ウッディーン・ハルジー」の記事における「インド亜大陸での遠征活動」の解説
1299年にはグジャラートのヴァーゲーラー朝(後期チャールキヤ朝の後継国家)にムルターンのウルグ・ハーンとデリーのヌスラト・ハーンを派遣し、国王カルナ2世の軍をアーシャーパッリー(現在のアフマダーバード)近郊で破り、首都アナヒラパータカを攻略した。アラーウッディーンは征服地に長官を置かず、またヴァーゲーラー朝と臣従関係を結ぶこともなく、軍隊をデリーに引き上げさせたためにカルナ2世が従来通りグジャラートを統治するが、カルナ2世と婚姻関係を築いた後に彼が謀反を企んでいる情報が入ると、1304年に再びグジャラートに軍を進め、ヴァーゲーラー朝を滅ぼした。 1299年のグジャラート遠征の帰途で、戦利品の分配に不満を持ったハルジー朝内のイスラム教に改宗したモンゴル人(新ムスリム)がジャーロール(英語版)近郊で反乱を起こし、彼らから助けを求められたランタンボールのチャウハーン朝が反乱者を保護する事件が起きる。この事件がきっかけとなってウルグ・ハーン、ヌスラト・ハーンが率いる10000の軍隊をランタンボールへ派遣し、ヒンドゥワートでランタンボール軍を撃破する。ハルジー朝側は反乱者の処刑と貢納品を要求するがランタンボールの王ハンミーラは要求を拒絶し、ランタンボール城砦に籠城した。兵糧攻めの末にハンミーラは突撃を敢行して部下と共に戦死し、ランタンボールの内通者を主人を裏切った者は信用できないとして処刑、ランタンボールをウルグ・ハーンの統治下に置いた。また、アラー・ウッディーンは反乱に直面して、治安維持を名目にデリーの郊外に居住する反乱者の子を虐殺し、妻女を奴隷とした。この行為について宮廷の歴史家バラニーは男たちの罪を彼らの妻子に負わせる前例は無いと、虐殺を批判する記述を残した。 1303年にメーワールを支配するグヒラ朝の王が籠るチットール城砦を陥落させ、1299年の新ムスリムの反乱で、反乱軍を支援したジャーロールのチャウハーン朝(ソーニーグラー朝)へもハルジー朝の軍隊が送られた。1305年にジャーロール城砦を包囲した後、アラーウッディーンは朝貢を条件としてジャーロール王カーンハダデーヴァを許し、カーンハダデーヴァはハルジー朝の呼びかけに応じてデリーの宮廷を訪れたが、カーンハダデーヴァ親子はデリーに人質を置くことを拒んでジャーロール城砦に立て籠もり、再びハルジー朝に敵対した。1308年にアラーウッディーン率いる軍はシワーナー城砦を攻略し、各地でジャーロール軍と交戦した後、ジャーロール城砦を包囲しての兵糧攻めを行った。ジャーロール軍は都市の富裕商人から食料の供給を受けて奮戦するが、1311年にジャーロールの内通者の手引きによってハルジー軍は城砦の中に入り、城内のカーンハダデーヴァと一族と家臣、婦女子が戦死した末に、ジャーロールはハルジー朝の支配下に収まった。
※この「インド亜大陸での遠征活動」の解説は、「アラー・ウッディーン・ハルジー」の解説の一部です。
「インド亜大陸での遠征活動」を含む「アラー・ウッディーン・ハルジー」の記事については、「アラー・ウッディーン・ハルジー」の概要を参照ください。
- インド亜大陸での遠征活動のページへのリンク