インド亡命の経緯とは? わかりやすく解説

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インド亡命の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 06:07 UTC 版)

カルマパ17世」の記事における「インド亡命の経緯」の解説

2000年ヒマラヤ山脈越えてチベット自治区からインド逃亡し難民認定経てそのままインド亡命した。 もともと、8歳カルマパ17世認定されてから、中国政府側の厚遇受けており、比較的自由を与えられていたとされる中国政府中国共産党カルマパ17世を、亡命中のダライ・ラマ14世代わる親中共産党派のチベット仏教指導者に育てあげよう考えていた。 しかし、カルマパ17世仏教修行のためにインドへの旅行希望し、それを中国政府に度々打診した断られ続けたその後当局からの監視がいっそう強くなった上に、1998年にはツルプ寺中国人2人によるカルマパ17世暗殺未遂事件おこったカルマパ14歳1999年12月28日の夜、中国政府番人たちの目をそらせた隙にツルプ寺寝室から、用意された車に飛び乗った一般人の姿をして、カルマパの姉を含む侍従5人と2人運転手と共にネパール国境へと進む。僧院ではカルマパ自室にいるように見せかけるため監視番人には、カルマパ長期瞑想修行入っていると説明し僧侶らが毎日部屋訪れていたという。 中華人民共和国は、カルマパ17世歴代のカルマパカギュー派黒帽活仏)の法器・黒帽を探索しにいく旨を書き記した置手紙残した発表しカルマパ17世がすぐに中国帰国することを示唆した。しかし、インドに姿を現しカルマパ17世本人はこの話を否定し自分行動中国束縛逃れて亡命であることを明言したネパール首都カトマンドゥ経てインド国内に入る。そこまで交通手段徒歩や馬、列車バスレンタカー乗り継いだとされる。ムスタン南部抜ける際には僧侶チャーターしたヘリコプター利用し逃亡中の資金食料信者支援供養)した。8日間に及ぶ逃亡によってカルマパの足は凍傷し、顔の皮膚ひび割れていた。 2000年1月5日早朝チベット亡命政府のあるダラムサラ近郊ゲストハウス到着同日ダライラマ14世面会果たしてその祝福受けたダライラマ14世カルマパ17世一緒に移っている写真日本世界各国でも報道された。

※この「インド亡命の経緯」の解説は、「カルマパ17世」の解説の一部です。
「インド亡命の経緯」を含む「カルマパ17世」の記事については、「カルマパ17世」の概要を参照ください。

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