インディアン部族と居留地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 07:30 UTC 版)
「ノースダコタ州」の記事における「インディアン部族と居留地」の解説
州領域内で連邦政府が公認しているインディアン部族は連邦政府と独立し、主権を持った関係を維持している。 北端のミズーリ下流域には、ルイス・クラーク探検隊が最初に出会ったとして記録に残したインディアン部族、マンダン族、ヒダーツァ族、アリカラ族の集落がある。 マンダン族が夏至の頃に大自然の回復を祈って大精霊に捧げる「オーキーパの儀式」は、大平原地方のインディアン部族に広まった「太陽の踊り(サンダンス)」の始祖となった。 定住農耕を行っていた彼らはその後、交易の中心地として栄えたが、1837年に白人の持ち込んだ天然痘で壊滅した。定住生活のため、蔓延率が高かったのである。3部族は1851年の「ララミー砦の条約で「ベルトホールド砦保留地」に移住させられ、「ミズーリ三大提携部族」として再編成された。 この「ミズーリ三大提携部族」の保留地(Reservation) は、1951年に「ギャリソン・ダム」建設(1953年完成)のためにほぼ水没した。伝統の農地とともに経済基盤と自立の機会を奪われた彼らにとっては、部族カジノが唯一の経済基盤となっている。 1830年代のマンダン族の指導者マト・トペ(四匹の熊)は、画家カール・ボドマーが肖像画に残し、非常に有名である。ミズーリ川に架けられた保留地の連絡橋は「四匹の熊の橋」と代々名づけられ、2005年10月3日に最新の橋が付け替えられている。 「テトン・スー」と呼ばれたダコタ族は、敵対するチッペワ族から「小さな毒蛇(ナドウェズ・スー)」と呼ばれ、ここから「スー族」の名がついた。18世紀に馬を手に入れた彼らスー族は騎馬略奪民となり、この北部大平原で最も勢力を誇った部族となった。 現在、スー族とチッペワ族(オジブワ族)は、1960年代のインディアン権利回復要求運動の高まりの中で「アメリカインディアン運動(AIM)」を結成し、以来共闘する仲となっている。 ノースダコタ大学は、同校のフットボールチーム他スポーツクラブの愛称を「戦うスー族」としている。この名に対し、ダコタ・スー族が「スー・インディアンを侮辱する人種差別だ」として半世紀にわたって名称変更の要求運動を続けている。しかし同校は現在もこれを「伝統的な名だ」として名称変更を拒絶しており、インディアン以外の民族も巻き込んだ抗議運動は南北ダコタ州に拡大している。 かつて彼らの他に、アラパホー族、アシニボイン族、シャイアン族がスー族と同盟し領土を共有していたが、1851年の「ララミー砦条約」ですべて他州の保留地に強制移住させられた。現在、以下の5部族が同州でアメリカ連邦政府から公式に認定され、保留地(Reservation)を領有している。 ≪連邦政府が公認している保留地とインディアン部族≫ 「亀の山の部族会議」 「スタンディングロック・インディアン保留地」「スタンディングロック・スー族部族会議」「上ヤンクトネイ族」 「ハンクパパ族」 「スピリット湖畔保留地」「スピリットレイク・スー族部族会議(ムニ・ワカン・オヤテ)」 「デビルズレイク・スー族部族会議(ムニ・ワカン・オヤテ)」※スピリットレイク・スーから改名「ワーペトン族」 「シセトン族」 「上ヤンクトネイ族」 「ベルトホールド保留地」「ベルトホールド保留地三大提携部族」「マンダン族」 「ヒダーツァ族」 「アリカラ族」 「亀の山のインディアン保留地」「チッペワ族・亀の山のバンド」 ≪連邦政府が公認していない部族≫ 「チッペワ族・ノースダコタ部族リトルシェル・バンド」
※この「インディアン部族と居留地」の解説は、「ノースダコタ州」の解説の一部です。
「インディアン部族と居留地」を含む「ノースダコタ州」の記事については、「ノースダコタ州」の概要を参照ください。
- インディアン部族と居留地のページへのリンク