イラナ湾上陸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/22 04:41 UTC 版)
サンボアンガ上陸翌日の3月11日、ミンダナオ島残部の制圧任務がアメリカ軍第8軍に下令された。その主目標はダバオの攻略にあったが、ダバオの防衛は強力であると予想されたため、ダバオから直線距離で約100km離れたイラナ湾コタバト付近が上陸地点に選ばれた。陸路を侵攻し、ダバオの背後を衝く計画であった。 4月17日、第78.2任務部隊の掩護を受けて、アメリカ陸軍第10軍団の第24歩兵師団が上陸した。イラナ湾には日本軍第100師団の独立歩兵第166大隊(第30師団に配属中)しか配置されておらず、正面からの抵抗は不可能だった。イラナ湾岸マラバンには飛行場が整備され、22日には海兵隊機が航空作戦を開始した。第24歩兵師団は道路のほかミンダナオ川を伝って東進し、交通の要衝カバカンを押さえると日本軍の第30師団と第100師団を分断してしまった。 アメリカ軍の予想通り、ダバオを守る日本軍は海からの上陸に備えた防衛体制は強固だったが、陸路からの攻撃は想定していなかった。アメリカ軍上陸の報を受けた第100師団長の原田中将は半信半疑だったが、20日にコタバトからの進路上であるダバオ湾南部ディゴスの守備隊に遅滞戦闘を指示した。ついで26日に、ダバオの陸海軍部隊に防衛配備を発令し、民間人には島の中央部への避難を命じた。 4月27日、アメリカ軍第24歩兵師団はダバオ湾ディゴスに到着した。ディゴスには独立歩兵第163大隊と陸戦隊1個大隊などが置かれていたが、原田中将の意図したような戦闘は行わずにアポ山中へ篭ってしまった。ダバオ湾岸を北上したアメリカ軍は、4月30日にダバオを防衛する日本軍と交戦開始したが、さしたる抵抗を受けずに5月3日にダバオ市街へと進入した。 その後、ダバオ市郊外に展開した日本軍との間で戦闘が行われた。ダバオを防衛する日本軍は陸軍18000人、海軍5400人と兵力は多かったが、本格的な戦闘部隊は第100師団のみであった。徐々に日本軍は北西の山地へ圧迫されていった。5月29日に第100師団司令部はダバオ川上流へと撤退し、6月19日には日本軍は全面退却を開始した。追撃が弱まった7月上旬から自活態勢に入り、そのまま終戦を迎えた。ダバオ地区での日本側の死者は、陸軍が12000人、海軍が3400人、民間人が4600人に及んだ。アメリカ軍第24歩兵師団の損害は、6月に主要戦闘が終わった時点で戦死350人と戦傷1600人だったのに加え、その後の掃討戦で第19歩兵連隊長トーマス・クリフォード大佐が戦死した。 その他、ダバオ湾岸に取り残されたいくつかの日本軍小部隊に対しても、航空機と魚雷艇の掩護の下で舟艇機動による掃討戦が行われた。アメリカ軍の記録によると、400人以上の日本兵が戦死し、25人が捕虜となった。アメリカ軍の損害は死傷27人であった。
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