イギリス及びイギリス連邦軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 14:56 UTC 版)
「イタリアのエジプト侵攻」の記事における「イギリス及びイギリス連邦軍」の解説
当時、イギリス中東方面軍司令官アーチボルト・ウェーヴェル将軍のエジプト領内での兵力は支援及び管理部門も含め約36,000名であった。彼はこれだけの兵力で、リビア約250,000名及び東アフリカ約250,000名ものイタリア軍からエジプト及びスエズ運河を防衛しなければならなかった。西方砂漠軍はイタリア軍の侵攻に直面することとなり、この時点で同軍はノエル・ベレスフォード=ペレス (en) 少将指揮下のインド第4歩兵師団 (en) (いくつかの部隊を他方面へ派遣していた。)及びマイケル=オムーア・クレアー (en) 少将指揮下の第7機甲師団 (en) (後に「砂漠のねずみ」と称された同師団であったが、この時点ではインド第4歩兵師団同様にいくつかの部隊を欠いていた。)により構成されていた。イタリア軍のマルサ・マトルーへの攻撃を見越し、イギリス軍は8月半ばにウィリアム・ゴット (en) 准将指揮下の第7支援群 (en) を国境地帯の前線に残し、機甲部隊の大半をマルサ・マトルー近郊に集中的に配置するために前線から撤退させた。この第7支援群(自動車化歩兵大隊3個、支援砲兵隊、工兵隊分遣隊及び機関銃隊で構成されていた。)は間断なく攻撃を仕掛け、ただしイタリア軍の侵攻作戦が開始された場合には本格的な交戦を避け、できるだけ侵攻を遅らせ時間を稼ぐよう指令を受けた。イギリス軍はこの戦術により、わずかな損害で国境地帯からマルサ・マトルーまでの間を防衛し、マルサ・マトルーを防衛拠点として侵攻から守り抜くこととした。 イギリス軍の防衛計画は、第11軽騎兵隊(師団偵察連隊)を含む第7支援群を基幹とした遅滞作戦部隊によりイタリア軍がマルサ・マトルーへ攻撃を開始する前に、絶えず攻撃を繰り返させながら、この部隊をマルサ・マトルーへ撤退させるというものだった。マルサ・マトルーでは強力な歩兵部隊がイタリア軍の攻撃を待ち構え、さらには砂漠の山脈の急斜面において第7機甲師団の主力部隊が反撃の態勢を整えていた。遅滞作戦部隊の標的は部隊の実際の規模よりも大きかった。支援群の多くは、その機動力を侵攻側面にあたる砂漠地帯で生かし、海岸線の道路を遮断する任務は、コールドストリームガーズ第3大隊(ライフル軍団第1大隊所属の1個中隊を付属)と自由フランス海兵隊1個機械化中隊(それぞれ砲兵部隊と機関銃部隊により支援を受けていた。)が担当した。 1940年5月末に中東のイギリス空軍は205機の航空機を保有していた。その内容は、旧式のブリストル ボンベイ (en) とブリストル ブレニム中爆撃機が合わせて96機、旧式のグロスター グラディエーター戦闘機75機と他の型の戦闘機が34機だった。6月には4機のホーカー ハリケーン戦闘機が到着したものの、このうちの1機だけが西方砂漠軍向けの予備であった。 7月の末には、イギリス海軍は東地中海を支配するに至った。イギリス海軍はイタリア軍の沿岸陣地への砲撃が可能となり、マルサ・マトルーを越えた沿岸部までの物資輸送を護衛することができた。
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