イギリスの王政復古
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 13:59 UTC 版)
「リチャード・ベリンガム」の記事における「イギリスの王政復古」の解説
1640年代と1650年代のイングランドは大きな混乱の時代だった。イングランド内戦によりイングランド共和国が設立され、オリバー・クロムウェルの護国卿制となった。この時代にマサチューセッツは概してクロムウェルや議会派に同調的だった。1660年にチャールズ2世が王位に復して王政復古となると、すべての植民地、特にマサチューセッツはその監視下に置かれることになった。1661年、チャールズ2世はその後にクエーカー教徒の処刑を禁じる「職務執行令状」を発行した。さらにマサチューセッツに、参政権を拡大し、プロテスタントの他の会派に対して寛容であることとする法の具体的な改正を要求した。これはエンデコット総督の間に抵抗されるかあるいは無視された。チャールズ2世は1664年にニューイングランドに役人を派遣し、その要求を強制させたが、ニューイングランドの植民地の中でもマサチューセッツが最も反抗的であり、実質的な要求の全てを拒否し、あるいは問題に表面的に対処するだけの修正を法制化するだけだった。 これに対するチャールズ2世の反応は、当時総督だったベリンガムと議会議長だったウィリアム・ホーソーンに、イングランドに来て植民地の動きを説明するよう命令を発することだった。この要求にどう応えるかについて、植民地の意見が分かれ、国王の要求に議会が従うことを求める植民地大衆の内部から請願の声が挙がった。これに関する議論によって補佐委員会の中に長く続く亀裂を生じた。いかなる代償を払っても国王の要求に抵抗することを望む強硬派と、国王の要求に応じるべきだと考える穏健派が争った。ベリンガムは強硬派の側に付き、結論として国王に手紙を送ることになった。その手紙では、要請が国王の発案になるものかを問い、植民地は国王に忠誠であり、議会がなぜ国王の要求に従えないかを既に十分に説明してきたと抗議していた。議会は満艦飾の船を贈り物として贈ることで怒れる権威筋を宥めようとした(ニューイングランドにはイギリス海軍にとって木材の貴重な資源があった)。チャールズ2世はオランダとの戦争(第二次英蘭戦争)と国内の政治に気を散らされ、ベリンガムの死後までこの問題を追及しなかった。ただし多くの理由があってマサチューセッツ湾植民地の認証は1684年に取り消された。
※この「イギリスの王政復古」の解説は、「リチャード・ベリンガム」の解説の一部です。
「イギリスの王政復古」を含む「リチャード・ベリンガム」の記事については、「リチャード・ベリンガム」の概要を参照ください。
- イギリスの王政復古のページへのリンク