アラビアおよびスーダンへの遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 13:20 UTC 版)
「ムハンマド・アリー」の記事における「アラビアおよびスーダンへの遠征」の解説
1811年3月、アフマド・トゥーソンを司令官とするアラビア遠征軍約1万が出陣した。遠征軍はヒジャーズ北部ヤンブーに上陸すると苦戦の末、1813年までにマディーナ、マッカ、ジッダの攻略に成功。その後本陣が襲撃され敗走を余儀なくされるなど劣勢に立たされたが、1814年に第一次サウード王国内部で後継争いが起こったことにより戦況は好転し、1818年9月に1万人の戦死者を出した末に首都ダルイーヤを陥落させたことでアラビア遠征は終結した。なお、アフマド・トゥーソンは1816年2月に病死し、司令官は長男イブラーヒーム・パシャが引き継いだ。戦後、イブラーヒーム・パシャはヒジャーズとアビシニアの総督に任命された。 アラビア遠征の結果マッカを領有するようになったムハンマド・アリーは、一部から「カアバを領有し、防衛する者がイスラム教徒の真の首長である」と支持されるようになるなど一定の名声と宗教的権威を獲得したが、一方で国力は大きく疲弊した。ムハンマド・アリーは国力を増強するためにスーダンを支配下に置いて奴隷貿易の権益や資源を得ようと軍を派遣したが、実際に獲得できたものは払った犠牲に見合うものではなかった。遠征軍の総司令官であった三男イスマイルは地元部族の反乱に遭って殺害され、その報復としてセンナールの住民3万を虐殺したところさらなる反乱を招いた。1820年に出陣した遠征軍が反乱の鎮圧に成功したのは1826年のことである。ムハンマド・アリーがスーダンに中央集権的な制度を導入したことはスーダン人の民族意識形成を促した。ムハンマド・アリー死後の1881年、エジプトでウラービー革命が起こるとそれに呼応する形でスーダンでマフディー戦争が起こった。 この時期のエジプト軍は様々な人種・部族の傭兵による混成部隊から成り立っており、指揮系統や軍備が統一されていなかった。ムハンマド・アリーはフランスを模範とする近代的な軍隊の創設を目指し、軍事改革を断行。1822年に農民に対する徴兵制を導入して陸軍の増強を図り、さらに艦艇の建造を推し進め海軍力の充実を図った。こうして創設された近代式軍隊ニザーム・ジェディトは1823年にアラビア半島で起こったワッハーブ派による反乱を鎮圧して以降、各地の戦いで実力を示した。
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