アメリカ共産党との関係
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1948年にアメリカ国務長官のアルジャー・ヒスがソビエトのスパイであることを証言した元アメリカ共産党員のウィッテカー・チェンバーズは、1952年の著書『Witness』の中で実名を挙げて共産党員の諜報活動について暴露し、その中で野田英夫についても言及した。チェンバーズの伝記によると、東京でのスパイ活動支部作りをする地下工作員ドン(本名ジョン・シャーマン)の助手を探していたチェンバーズは、ロックフェラーセンターの壁画にスターリンを描いて騒動を起こしたディエゴ・リベラの助手をしていた野田に目をつけた。若く有望な画家であり、共産党員であり、日・英語に通じ、日本とも行き来がある野田は適任だった。また、(真偽は不明だか)野田は近衞文麿の親戚とも名乗っており、日本の大物と知り合いであることも理想的と思われた。チェンバーズは大学の級友だった左派系美術史家のメイヤー・シャピロを通じて野田と知り合い、快諾を得た。野田のコードネームは「ネッド」が使われた。結果として日本での支部作りは成功せず、野田の活用の場はなかったが、のちに野田の急死を知ったチェンバーズはスターリニストのエージェントに殺されたのだろうと語ったという。カルフォルニア美術学校時代からの野田の友人であり銀座の「コットンクラブ」の壁画も一緒に手掛けた寺田竹雄は、野田が日本へ戻ったのは情報収集が目的であり、野田から「使命をおびてやってきた」と打ち明けられていたという。
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アメリカ共産党との関係
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フィリピン共産党は、結党以来東方書記局とアメリカ共産党を通じてモスクワ(コミンテルン)と連結されており、これは「共産党は東方書記局と宗主国共産党の2本のラインを通じてコミンテルンと結ばれる」という当時の東南アジアの各共産党において一般に見られる構図であった。ところが1935年に東方書記局が廃止されてしまうと、アメリカ共産党の影響力が次第に大きなものとなり、ついにはフィリピン共産党の基本政策にまでアメリカ共産党が口を出すまでになった。1937年頃からコミンテルンでは、アメリカにフィリピン共産党の幹部を養成する学校を設立しようという議論が行われるようになったが、ここに、これまでコミンテルンが行ってきた重要な業務(植民地共産党の指導)を宗主国共産党に委任する、という当時の共産主義運動の方向性を見ることができる。コモンウェルス期の合法路線や社会党との合同も、米共産党の指導によるものであったとされる。
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