アメフトでの活躍
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「アーニー・ラッド」の記事における「アメフトでの活躍」の解説
ハイスクール時代にババ・スミスの父親にアメリカンフットボールの指導を受け、グランブリング州立大学にて活躍。1961年に大学を中退し、AFLドラフト15巡でサンディエゴ・チャージャーズに指名されて入団。リーグでも最高身長で最重量級だったラッドは、チャージャーズのAFLチャンピオンシップ・ゲーム3回出場に貢献し、1963年にチームはAFLチャンピオンとなった。チャージャーズでは、チームメイトのロン・ネリー、ビル・ハドソン、アール・フェイソン(英語版)らと共に、"Fearsome Foursome" (恐怖の4人組)とも呼ばれた。 その後、1965年にヒューストン・オイラーズ、1967年にはカンザスシティ・チーフスに移籍。チーフスではバック・ブキャナン(英語版)とチームメイトになり、プロフットボール史上もっとも大きいディフェンシブタックル(DT)コンビとして活躍した。この間、1962年から1965年まで4年連続でAFLのオールスター戦にも出場している。ボストン・ペイトリオッツのセンター、ジョン・モリス(英語版)によるとラッドと向かい合った場合、彼が大きすぎたために後方にいるラインバッカーやゴールポストが見えないほどであったという。1981年にはチャージャーズの殿堂に迎えられた。
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アメフトでの活躍
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「レオ・ノメリーニ」の記事における「アメフトでの活躍」の解説
1946年にミネソタ大学へ入学、アメフト選手として活躍。ポジションはディフェンシブタックル。1948年、1949年にはオール・アメリカンに選出された。大学時代は、砲丸投と400メートルリレーのアンカーも務めた。 1950年のNFLドラフト1巡でサンフランシスコ・フォーティナイナーズに指名されて入団した。1950年から1963年までの14年間のキャリアで174試合に連続出場、プロボウルに10回、NFLの1950年代オール・ディケイド・チームに選ばれている。 また1951年、1952年にはオフェンシブタックルとして、1953年、1954年、1957年、1959年にはディフェンシブラインとしてオールNFLに選ばれた。 1969年にプロフットボール殿堂に迎えられ、1977年にカレッジフットボール殿堂に選出された。
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