アメフトから野球に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 17:23 UTC 版)
小学生になると、夏休みには父親が働く製糖会社パイオニア・ミルのサトウキビ畑の刈り入れを手伝う。フェリントン・ハイスクールでは、アメリカンフットボール・バスケットボール・野球の万能選手だった。 俊足を買われ、1947年にアメリカンフットボールのサンフランシスコ・フォーティナイナーズ(当時はNFLとは別のAAFCというリーグに所属していた)に契約金14,000ドルで入団。ハーフバックとして活躍するが、同年オフにハワイへ帰郷した際、野球を楽しんでいたところ左手首を骨折したことが原因で、49ersを退団。次にハワイアン・ウォリアーズでプレーするが、2年目に左肩を脱臼してフットボール選手としての現役続行を断念した。 1950年に野球に転向し。マイナーリーグAAA級サンフランシスコ・シールズ傘下のC級ソルトレイクシティ・ビーズ(英語版)に入団する。同年は打率.335を打ってリーグ5位に入り、翌年の2A昇格が決まっていた。しかし、同年オフにホノルルで行われた、ハワイ選抜対パ・リーグ選抜に出場して日本プロ野球選手の好待遇を知り、与那嶺は日本でのプレーを望む。
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