アマチュア、マイナー時代
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「マイク・アダムス (投手)」の記事における「アマチュア、マイナー時代」の解説
テキサス州コーパスクリスティで生まれ、近郊の同州シントンで育つ。子供のころはテキサス・レンジャーズのファンだった。憧れの野球選手はノーラン・ライアンであり、後にポジションも彼と同じ投手になる。地元のシントン高校では野球とバスケットボールをプレイしていたが、本人はバスケのほうが気に入っており、当時は野球をやめることも考えていたという。だが高校を卒業してテキサスA&M大学キングスビル校へ入学した直後、バスケの試合でリバウンドを取った際に他選手の足を踏んで骨折し、それ以降は野球に専念することになった。 同校はNCAAでは強豪校が集まるディビジョンIに所属していないため注目度は低かったものの、アダムスが2年目の2000年に奪三振数の同校記録を更新する好投を見せると「MLBドラフトでは10巡目から15巡目あたりで指名があるんじゃないか」との声が上がり始める。結局この年のドラフトではどの球団からも指名されなかったが、ドラフト後にはトロント・ブルージェイズとミルウォーキー・ブルワーズのスカウトがアダムスのテストを行うなど、翌年以降を見据えたプロ球団の調査は継続していた。続く2001年もアダムスは98.2イニングで115個の三振を奪い、2年連続の記録更新を達成する。 前年のドラフトで指名を受けなかったため、規定によりどの球団とも自由に交渉できるようになっていたアダムスは、ブルワーズと契約してドラフトを経ずにプロ入り。大学時代は先発投手を務めていたのに対し、プロ入り後はマイナーリーグで主にリリーフとして育成される。2001年はルーキー級オグデンで23試合に、2002年はA級ベロイトからAA級ハンツビルまで計3クラスで34試合に、それぞれ救援登板。2年間で23セーブを挙げ、奪三振率はいずれの年も11を超える高い数値を残した。2003年もAA級ハンツビルで1年を過ごし、2004年にはAAA級インディアナポリスへ昇格する。
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アマチュア、マイナー時代
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「ブランドン・ウェブ」の記事における「アマチュア、マイナー時代」の解説
幼少期はアトランタ・ブレーブスのファン。リトルリーグでは三塁手をしていたが、高校の野球部では投手に転向する。高校卒業時にはMLB球団からのドラフト指名こそなかったものの、いくつかの大学から奨学生のオファーをもらい、その中からケンタッキー大学を選んで進学する。大学時代のウェブは、90mph台前半(148.8km/h前後)の速球とカーブを投げる速球派投手だった。ある日の試合で上級生が学業成績悪化のためプレイできなくなり、ウェブが代わりに先発登板、そこで好投したためそのまま先発に定着した。2000年、ウェブは18試合112.0イニングで7勝3敗・防御率4.58・123奪三振という成績を残している。このときのチームメイトにはジョー・ブラントンがいる。 同年、MLBドラフト8巡目(全体249位)でアリゾナ・ダイヤモンドバックスから指名され入団。この年にマイナーのA級サウスベンド・シルバーホークス(英語版)で初めて投球練習した際に、投手コーチのロイヤル・クレイトンから「君の球には物凄く Movement があるんだから、もっとツーシームを投げてみないか?」と言われ、投げてみたところ「自分でもビックリするぐらい」大きく沈む変化を見せたという。ウェブはこれを受けて「自分の投球スタイルを全面的に変えることにした。三振の代わりにゴロを打たせるようにした」と、シンカーボーラーへの変身を決めた。この年は「あまり気乗りしなかった」というリリーフで12登板して終わったが、翌2001年にAdv-A級ランカスターに昇格すると29登板中28試合で先発。しかし、投げる本人でさえどこに行くかわからないというツーシームの制球に苦しみ、この年は6勝10敗・防御率3.99・27与死球という成績で終えた。 2002年にAA級エルパソ・ディアブロスに昇格したウェブは、そこでクレイトンとマーク・デイビスの2コーチから指導を受け、ツーシームを会得する。これまで速球はフォーシームとツーシームとを使い分けていたウェブだが、この年からフォーシームをやめてツーシームだけを投げるようにした。エルパソでの26試合で10勝6敗・防御率3.14を挙げると、シーズン途中にAAA級ツーソンへ昇格。翌2003年にツーソンで3試合に登板後、4月にメジャー昇格を果たす。
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