アニメ化及び他作品への出演
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「クレイジー・カット」の記事における「アニメ化及び他作品への出演」の解説
この作品は何度かアニメ化された。最初の作品は1916年にウィリアム・ランドルフ・ハーストがプロデュースしたが、ヘリマンは一切制作にかかわっていなかった。制作はHearst-Vitagraph News Pictorial(英語版) が担当し、のちにInternational Film Service(英語版)が代行した。1920年John Randolph Bray(英語版)がクレイジー・カットの短編シリーズを制作し始めた。 1925年、アニメ製作者ビル・ノーランは、クレイジー・カットの映画をもう一度作ろうと考えAssociated Artists Productions(英語版)に製作を委託しようとしたが、そのAssociated Animatorsが倒産したためマーガレット・J・ウィンクラー(英語版)と手を組むことにした。初期のアニメ版とは違い、ノーランの作品は原作をもとにしておらず、フィリックスを反映したような姿と性格の雄猫が主人公だった。これはノーランがかつてパット・サリバンのスタジオに雇われていたためだとされている。 ウィンクラーの会社の運営は、夫のチャールズ・B・ミンツに徐々に引き継がれていった。ミンツと彼のスタジオは、1929年公開のRatskin(英語版)を皮切りに音の入ったアニメ映画を制作し始め、1930年にはカリフォルニア州にスタッフを移した。クレイジー・カットのデザインは原作とは大きくかけ離れ、1930年代初期によく見られた、主人公と彼にそっくりなガールフレンドと主人公の忠犬が巻き起こすドタバタ劇という、内容もミッキーマウスの亜流といえるものだった。 1936年、アニメーターのIsadore Klein(英語版)は、ミンツの協力を得て短編アニメ"Lil' Ainjil(英語版)"の制作にとりかかった。この作品はミンツの作品で唯一、原作を反映しようとした作品であるが、当のIsadore Kleinは、作品の出来に"ひどく失望"し、以降はミッキー・マウスの亜流じみた作風に戻ってしまった。1939年、ミンツはコロンビア ピクチャーズに対する借金を抱え、自身のスタジオをコロンビア映画に売った。スタジオはスクリーン ジェムズと名を変えたが、この名義の下では1940年に『Mouse Exterminator』というタイトルが制作されたのみで、その後しばらくの間クレイジー・カットのアニメ化はなされなかった。 チェコスロバキア(現チェコ)のプラハにあるジーン・ダイッチのRembrandt Films(英語版)は、クレイジー・カットのアニメを1962年から1964年の間に制作し、ベビーブーム世代がクレイジー・カットを知るきっかけを作った。テレビシリーズであるダイッチ版クレイジー・カットは、原作と同じような様式で、イグナッツ・マウスもパプ巡査もちゃんといたが、クレイジー・カット自身は女性じみた描写になっていた。クレイジー・カットの声はペニー・フィリップスが、イグナッツとパプ巡査の声はポール・フリーズが担当した。多くの回でBGMを担当したのはジェイ・リビングストンとレイ・エバンズ。この作品は馬鹿げたアニメーションと声の不一致さが露見していた。 クレイジー・カットは1988年放送のTVスペシャル『ガーフィールドは9回生きる!』に出演した。第5の命である "Stunt Cat"では、クレイジー・カットが花のにおいをかいでいるところにイグナッツが布いっぱいのレンガを木から吊るす。監督席にいたパプ巡査がガーフィールドにクレイジー・カットのスタントを頼み、ガーフィールドがそれを引き受けたところ、イグナッツがガーフィールドの頭めがけてレンガを落とす、という落ちがつく。 また、『スポンジ・ボブ/スクエアパンツ ザ・ムービー』では、アイスクリームのパーラーの後ろにクレイジー・カットとイグナッツ・マウスが描かれた絵が飾られている。
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