せんとぽーりあとは? わかりやすく解説

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セントポーリア【(ラテン)Saintpaulia】

読み方:せんとぽーりあ

イワタバコ科多年草卵円形両面に毛を密生する夏から秋に、スミレ似た濃紫・紫・白色などの花を数個総状につけるアフリカ原産で、観賞用に温室などで栽培されるアフリカすみれ。

セントポーリアの画像
撮影広瀬雅敏

せんとぽーりあ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/24 15:34 UTC 版)

せんとぽーりあ
基本情報
船種 フェリー
船籍 日本
所有者 日本カーフェリー
運用者 日本カーフェリー[1]
建造所 日本鋼管清水造船所[2][1]
姉妹船 ふぇにっくす
はいびすかす
ぶーげんびりあ[2]
建造費 22億円[2]
IMO番号 7033939
経歴
起工 1970年
進水 1970年10月
竣工 1971年1月[2]30日[1]
就航 1971年3月
運航終了 1993年12月
最後 2011年、解体
要目
総トン数 5,960 トン
全長 118.0 m[1]
20.4 m[1]
深さ 8m[1]
喫水 5.7m[1]
機関方式 ディーゼル
主機関 SEMT ピルスティク 12PC2V 2基
推進器 可変ピッチプロペラ 2軸
速力 21.75ノット[1]
旅客定員 1,010名
車両搭載数 トラック40台、乗用車110台[1]
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せんとぽーりあは、日本カーフェリーが運航していたフェリー

概要

日本カーフェリーの京浜航路開設にあたって日本鋼管清水造船所で建造され、僚船のふぇにっくすとともに1971年3月に就航した。

1972年5月、日本カーフェリー子会社の宮崎カーフェリーの大阪航路開設にあたって転配され、宮崎カーフェリーの神戸航路に就航していたはいびすかすとともに就航した。1973年4月12日から4月13日には、天皇皇后の宮崎県で開催された全国植樹祭に際しての行幸啓において東京への復路にて日向港から川崎港までの臨時便を運航し宿泊施設として用いるとともに、御料車の航送も行った[2][3]

その後は、1990年のシーコムによる日本カーフェリー買収でシーコムフェリーへ継承され、1992年マリンエキスプレスへの社名変更を経て、一貫して大阪航路で運航され、ふぇにっくす型4隻および準同型船2隻の中では、最後まで現役に残った。

1993年12月、高千穂丸の大阪航路転配により引退した。

その後、海外売船され、フィリピンネグロス・ナビゲーション英語版に移籍[2]SAN PAOLOとして就航していたが、2011年に解体された。

設計

4隻が建造されたふぇにっくす型の2番船である。三菱重工業神戸造船所日本鋼管清水造船所で2隻ずつ建造されたが、本船は日本鋼管の1番船として建造された。

事故・インシデント

車両甲板火災

1985年10月15日、17時30分頃大阪南港フェリーターミナルに接岸していた際日向細島港への出港直前にDデッキに積載していた車両から出火し消防車14台・消防艇1隻が出動し大型保冷車2台とトラック1台が焼損、乗員乗客は避難し無事[4]

機関損傷

1991年3月3日、17時56分ごろ、宮崎港へ向かって大阪南港を出港した本船は、大阪南港外港南防波堤灯台の西方約2.5海里の地点で、左舷主機2番シリンダのライナ焼き付きにより左舷機が運転不能となったため、大阪南港へ引き返した。事故原因は、当日に整備のため左舷主機2番シリンダのピストン抜き出しを実施した際、工事業者が作業に不慣れであったため、作業中に異物がかみ込んだ結果、シリンダライナ下部にスカッフィングを生じ、ピストンがライナに焼き付いたためであった。九州側の発着地が細島港から宮崎港へ変更された影響で、整備実施場所が大阪南港へ変更となり、今回が初めての施工であった[5]

貨物船との衝突

1992年5月27日、3時52分ごろ、大阪南港から宮崎港へ向かっていた本船は、足摺岬沖合を航行中、足摺岬灯台の南南西約2.6海里の地点で、大阪港から那覇港へ向かっていた貨物船しゅりと衝突した。本船の右舷後部が、しゅりの左舷後部に前方から約10度の角度で衝突、衝突により本船は右舷船尾部のC甲板に曲傷、付近の外板・カーテンプレートおよびブルワークに凹傷を生じ、しゅりは左舷船尾外板に凹傷を生じた。事故原因は、夜間に両船が、互いに進路を横切り衝突のおそれがある態勢で接近した際に、本船が見張り不十分で、前路を左方に横切るしゅりの進路を避けなかったことで発生したが、しゅりが警告信号を行わず、衝突回避の協力動作をとらなかったことも一因とされた[6]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i 海事重要日誌(新造船)昭和46年1月 30 「せんとぽーりあ」起工 - 日本海事年鑑昭和47年版(日本海事新聞社)49頁
  2. ^ a b c d e f 山田廸生文庫 名船発掘 せんとぽーりあ - 日本クルーズ&フェリー学会
  3. ^ 佐野清伍「両陛下のお供をして」 - 旅客船101号(日本旅客船協会 1973年)
  4. ^ フェリーの車炎上 出港直前乗客は無事-北海道新聞1985年10月15日朝刊
  5. ^ 神戸地方海難審判庁 (3 June 1993). 平成3年神審第97号 旅客船せんとぽーりあ機関損傷事件 (PDF) (Report). 海難審判・船舶事故調査協会. 2016年6月7日閲覧
  6. ^ 神戸地方海難審判庁 (9 February 1993). 平成4年神審第72号 旅客船せんとぽーりあ貨物船しゅり衝突事件 (PDF) (Report). 海難審判・船舶事故調査協会. 2016年6月7日閲覧

せんとぽーりあ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 04:28 UTC 版)

宮崎カーフェリー」の記事における「せんとぽーりあ」の解説

5,960総トン全長118.0m、型幅20.40m。 1971年日本カーフェリー就航1972年宮崎カーフェリー転属造船所 日本鋼管清水造船所 航海速力20.0ノット最高速力21.9ノット 旅客定員1,010名、車両積載数8トントラック40台・乗用車110台 2代目法人 フェリーひむか 1995年7月3日起工同年12月18日竣工1996年3月28日初就航13,597総トン全長195.95m、幅27.0m。 出力46,200ps、航海速力24.9ノット最大27.5ノット)。航行区域近海旅客定員350名(最大396名)。車両積載数:トラック154台、乗用車77台。 九越フェリーれいんぼうべる」として就航し直江津 - 博多航路運航されていたが、「ニューれいんぼうべる就航後宮崎カーフェリー売却されフェリーひむか」に改名貝塚 - 宮崎航路休止後2006年8月25日他社売却ののち三井造船由良)にて「FERRY HIMUKA」に改名パナマ船籍)。のち、長崎港係船中の同年12月8日、「ARIADNE」に改名のうえギリシャHellenicSeaways社)へ売却され、同15日同国へ向け出港した九越フェリー時代僚船の「れいんぼうらぶとともに映画「白い船」のモデルとなったほか、宮崎カーフェリー時代映画LIMIT OF LOVE 海猿」の撮影にも使われるなど、映画と縁の深い船であった

※この「せんとぽーりあ」の解説は、「宮崎カーフェリー」の解説の一部です。
「せんとぽーりあ」を含む「宮崎カーフェリー」の記事については、「宮崎カーフェリー」の概要を参照ください。

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