すかいらーくグループ成長期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 19:00 UTC 版)
「すかいらーく」の記事における「すかいらーくグループ成長期」の解説
横川4兄弟が外食産業への参入を決めた契機として、アメリカ視察などを通じて「日本の外食産業のレベルが低い」と感じた背景について、横川竟は「おいしい店に行けば値段が高い、安い店はまずくて汚くろくに挨拶もしないようなところばかり。我々は、きれいできちんと挨拶もして高いものは売らない店にすることを目指しました。きれいで良いサービスで速いということです」と語っている。なお、実際には専門のシェフもいなかったため、三井グループの会員制クラブ三井倶楽部のシェフだった番場善勝に指導を仰ぐことになった。番場は後にすかいらーくに招かれ、常務となっている。 ファミリーレストランとしてのオペレーションの基礎が固まり、このビジネスモデルを生かした多店舗化を検討するが、当時の新興企業すかいらーくが地元の取引銀行から融資を得る事は容易でなく、土地を所有するオーナーと長期にリース契約を結びオーナー側が店舗建築費を負担、すかいらーく側が通常の土地リース代と店舗の使用料を含む割増の家賃を支払うリースバックシステムを開発する。この試みも実際には容易でなかったが、すかいらーく店舗へ土地オーナーを招待し、繁盛している様子を実際に見せて契約を取り付けるなどの努力を重ねた。 1974年には、埼玉県・神奈川県・千葉県に各30店舗を出店する「首都圏100店構想」を発表。1976年に埼玉県東松山市にセントラルキッチンを作る前には「関東300店構想」を掲げた。 1981年、ファミリーレストランの大規模チェーン初のPOSシステムを日通工と共同開発し全店で導入した。これにより、既存の手書き伝票による利用客からのオーダー受けが客席におけるハンディーターミナルのボタン入力で完了し、メニューの販売履歴の管理、在庫管理・発注がシステム化され、効率的な店舗運営が可能になった。このシステム化の成功により、少人数での対応によるローコストオペレーションへの改革と多店舗化に弾みが付くこととなった。 1980年代半ば、それまでのチェーンレストランには無かった斬新な和食メニュー「麦とろご飯膳」を発表した。世の中のヘルシー嗜好などに即したとろろを取り入れたため、ファミリー層を中心に売れ筋メニューとなった。以後、すかいらーくは和食メニュー開発に積極的に取り組み、「きのこ雑炊」「チキンもろみステーキ」「まぐろ丼」など、自社のセントラルキッチンをフル活用したヒット商品を作り出した。 時代の変化や消費者ニーズの多様化に応え、1980年4月にコーヒーショップ「ジョナサン」1号店(練馬高松店)をオープン。1982年にはアーリーアメリカン調のカジュアルレストラン「イエスタディ」など斬新なコンセプトのレストランを開店させた。イエスタディはチェーン展開されたものの、現在はすべて閉店またはガストなどに転換している。 1986年4月には中華料理「バーミヤン」1号店(鶴川店)をオープン。その後も和食レストラン「藍屋」「夢庵」など新業態を開発し、レストラン業界のリーディングカンパニーとして成長を続けた。1993年、すかいらーくグループは外食産業のうちテーブルサービスレストランとして初の1,000店舗出店を達成した。
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