お猿畠の大切岸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 08:07 UTC 版)
法性寺墓地奥より大切岸を望む。2013年1月30日撮影。 大切岸を近接して撮影。2021年2月16日撮影。 鎌倉側から見て、名越切通の左側(東側)の尾根筋南面は、高さ3-10メートルの人工的な切り立った崖が若干の平場を伴って約800メートルに渡って連なる地形となっている。 この崖面は「お猿畠の大切岸」(おさるばたけのおおきりぎし)と呼ばれ、赤星直忠の調査・研究以来、「鎌倉城」の外城ラインとして、自然地形を鎌倉防衛のための城壁として強化するため、とりわけ北条氏の支配する鎌倉幕府にとって潜在的な脅威であった衣笠城を拠点とする三浦一族に対する備えとして形成されたものと考えられてきた。 しかし、これには否定的な見方も多く、2002年(平成14年)の発掘調査により、大切岸の地形は建築・土木用に板状の石材を大量に切り出した結果であることが確認された。石切りが行われた時代は、堆積した火山灰から1707年(宝永4年)の富士山噴火以前であることは確認されており、特に鎌倉において建物の基礎、護岸、井戸枠などに多くの切石が使われた14-15世紀が中心ではないかと考えられる。 一方、三浦氏は宝治元年(1247年)の宝治合戦により滅ぼされたが、それまでは鎌倉幕府において北条氏に次ぐ重臣であり、鎌倉内に居館があった(宝治合戦も鎌倉市街で起きている)ことを考えても、「三浦氏に対する備え」として整備されたとは考えづらい。 なお発掘調査を行った逗子市は、石切場であることを確認したものの、尾根そのものを切り崩さず、主に南面のみを切り立たせていることから、副次的に防衛目的に沿う地形維持に配慮して石材を切り出していた可能性はあると、推測の域として述べている。 大切岸のある尾根筋は、鎌倉市と逗子市の境界となっている。大切岸西端から下は法性寺の寺域で、法性寺から尾根道への登り口、および法性寺墓地奥にはいくつかのやぐらがある。『新編鎌倉志』には「堂ノ北ニ巌窟相並デ六アリ、此六老僧ノ居タル岩窟也」と記され、附図にも「六老僧巌窟」とあるが、これらのやぐらを指すのかどうかははっきりしない。 大切岸東端、通称「水道山」下には巨大な横穴があるが、これはやぐらではなく石を切り出した跡の可能性がある。また、尾根を隔てて鎌倉市大町側の「子ども自然ふれあいの森」パノラマ台南側崖面は、樹木と下生えで見えづらいが「まんだら堂やぐら群」同様、数段にわたり多数のやぐらが掘られている。
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