「鎌倉城」観の成立とは? わかりやすく解説

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「鎌倉城」観の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 03:06 UTC 版)

鎌倉城」の記事における「「鎌倉城」観の成立」の解説

平安時代末期から鎌倉時代初頭にあたる、源氏平氏争った治承・寿永の乱1180年-1185年)の頃、九条兼実日記玉葉』の記事として、寿永2年1183年10月25日の条に「鎌倉城にいる源頼朝木曽義仲追討のために兵5万興し」て、同年11月2日の条に「去月5日鎌倉城出発した」とあることが知られている。この記事の「鎌倉城」を、土塁堀切切岸などを築いて防御固めた軍事施設的な「城」の意味捉え、また鎌倉現存する人為的な地形改変城郭遺構見て鎌倉全域城郭考える説(または中世人がそう認識してたとする説)が出現した城郭史的視点鎌倉城について触れた初期の研究は、戦前1937年昭和12年)の鳥羽正雄による「城郭構造社会・経済考察」(『歴史教育12-8』※鳥羽 1980日本城郭史の再検討』に所収)という。ただし鳥羽は、天然要害地の中にある鎌倉が「鎌倉城」と一部呼ばれたものの、明確な遺構がなく、中世鎌倉には有事の際に防御施設造ることはあっても、常設的な城郭遺構はなかったとする。 「軍事都市」「城塞都市」的な鎌倉像を印象付けたのは、神奈川県内考古学研究基礎築いた赤星直忠1950年代-1970年代研究といわれる赤星は、古都鎌倉西・北・東の3方を急峻な山地、南を海(相模湾)という天然要害囲み鎌倉七口呼ばれる切通し平時出入口としているが、有事には封鎖して外部からの敵を迎撃する城塞都市であるとして、旧鎌倉町域から極楽寺地区を除く範囲を「鎌倉城」の範囲とした。その具体的な遺構の例として、鎌倉逗子市境の丘陵にある名越切通国史跡)の逗子800メートル渡ってみられるお猿畠の大切岸」という切岸状の岩盤露頭挙げて、これを北条氏三浦氏侵攻備えて設けたものとした。 赤星による軍事的性格積極的に評価した鎌倉都市像は、石丸熙による研究でさらに進んで和田合戦以降城塞都市としての拡張図られたと推論された。 1980年昭和55年刊行の『日本城郭大系6(千葉神奈川)』(新人物往来社)も『玉葉』や赤星論考を引き、鎌倉当時地域全体をして城郭捉えられていたとする

※この「「鎌倉城」観の成立」の解説は、「鎌倉城」の解説の一部です。
「「鎌倉城」観の成立」を含む「鎌倉城」の記事については、「鎌倉城」の概要を参照ください。

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