『文学界』と浪漫派詩人とは? わかりやすく解説

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『文学界』と浪漫派詩人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 02:59 UTC 版)

島崎藤村」の記事における「『文学界』と浪漫派詩人」の解説

卒業後、『女学雑誌』に訳文寄稿するようになり、1892年9月20歳時に明治女学校高等科英語科教師となる。翌年交流結んでいた北村透谷星野天知雑誌文学界』に参加し同人として劇詩随筆発表した一方で教え子佐藤輔子を愛し教師として自責のためキリスト教棄教し、辞職するその後関西遊び吉村家に戻る。1894年明治27年)に女学校復職したが、透谷自殺。さらに兄・秀雄水道鉄管関連する不正疑惑のため収監され翌年には輔子が病没この年再び女学校辞職しこの頃のことは後に『春』で描かれる1896年明治29年9月8日東北学院教師となって宮城県仙台市1年間ほど赴任同年10月25日母の死直面し当時住んでいた広瀬川を見下ろす上の支倉町住居詩作始め仙台駅近く三浦屋移って第一詩集若菜集』を執筆、これを発表して文壇登場した。『一葉舟』『夏草』『落梅集』の詩集明治浪漫主義開花先端となり、土井晩翠仙台県仙台出身と共に時代」あるいは「晩時代」と並び称された。これら4冊の詩集出した後、詩作から離れていく。 藤村の詩のいくつかは、歌としても親しまれている。『落梅集』におさめられている一節椰子の実」は、柳田國男から伊良湖海岸愛知県)に椰子の実流れ着いているのを見たというエピソード貰ったもので、1936年昭和11年)に国民歌謡一つとして山田耕筰門下大中寅二作曲し現在に至るまで愛唱されている。同じく落梅集おさめられている「海辺の曲」はシューベルトの歌曲「白鳥の歌」第12曲に作詞したものであり、あわせて楽譜収録されている。また、同年発表され国民歌謡「朝」(作曲小田進吾)、1925年大正14年)に弘田龍太郎によって作曲され歌曲千曲川旅情の歌』も同じ詩集からのものである

※この「『文学界』と浪漫派詩人」の解説は、「島崎藤村」の解説の一部です。
「『文学界』と浪漫派詩人」を含む「島崎藤村」の記事については、「島崎藤村」の概要を参照ください。

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