『ルフ・デュール』
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「ピエール・ナヴィル」の記事における「『ルフ・デュール』」の解説
同じ哲学科の学生であったジョルジュ・デュヴォー(フランス語版)らが1921年に前衛文学雑誌『ルフ・デュール(フランス語版)(かたゆで卵)』を創刊し、ジェラール・ローゼンベール(Gérard Rosenberg)が編集委員会に参加していた。ローゼンベールは当時まだ学生であったが、詩人マックス・ジャコブの親戚で、すでに他の文学雑誌を主宰した経験があり、ダダの運動に参加し、後にシュルレアリスム運動を担うことになるフィリップ・スーポー、ルイ・アラゴンと親しかった。ナヴィルはローゼンベールに連絡を取り、『ルフ・デュール』誌に詩を寄稿し、これが契機となって『ルフ・デュール』誌の寄稿者(スーポー、アラゴン、マックス・ジャコブ、マルセル・アルラン、フランシス・カルコ(フランス語版)、ブレーズ・サンドラール、ジャン・コクトー、ピエール・ドリュ=ラ=ロシェル、ヴァレリー・ラルボー、フランソワ・モーリアック、アンリ・ド・モンテルラン、ポール・モラン、レイモン・ラディゲ、ピエール・ルヴェルディ、アンドレ・サルモン(フランス語版)ほか)をはじめとし、新しい文学を模索する同世代の作家との交流が始まった。 ヴァレリーの影響のもとに詩作を始めたが、一方で画家になる希望を捨てたわけではなく、肖像画などを描き続け、若手画家ピエール=ウジェーヌ・クレラン(フランス語版)とともにポン=タヴァン派の誕生の地、ブルターニュ地方のポン=タヴァンを訪れたりもしていたが、『ルフ・デュール』誌で詩を発表しながら、1923年から24年にかけてソルボンヌで哲学の学士論文を執筆しているときに、1919年にブルトン、アラゴン、スーポーによって創刊され、当初はダダの機関誌であった『リテラチュール(文学)』誌における実験的な試み、とりわけ、フロイトの精神分析に基づく自由連想法の影響を受けて、理性に制御されない純粋な思考を表現しようとする自動記述の最初の試みであるブルトンとスーポーの「磁場」に新しい文学の可能性を見いだし、自ら「左手の女王たち」と題する自動記述を試み、1924年に自費出版した。これはカフェのテーブルで一気呵成に書き上げたもので、色彩表現に富んだ絵画的な描写である。一方で彼は、「シュルレアリスムの絵画は存在しない」という。これは、広義のオートマティスムとの関連において、鉛筆を自由に走らせても、絵筆で夢の形象をなぞろうとしても、それだけではシュルレアリスムの絵画と言えないという趣旨である。
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