『リエンツィ』とアドルフ・ヒトラー
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「リエンツィ」の記事における「『リエンツィ』とアドルフ・ヒトラー」の解説
『リエンツィ』はナチス・ドイツの独裁者アドルフ・ヒトラーに大きな影響を与えた作品であるとされる。トーマス・グレイは以下のように述べている。 リエンツィの生涯の足跡の一歩一歩 ―― ……人民の指導者として喝采を受け、軍事面で苦闘し、敵対派閥を暴力的に抑圧し、裏切られ、……そして最後に犠牲となって死ぬ ―― をヒトラーが自分の空想の糧としていたであろうことは疑いようがない。 ヒトラーの少年期の友人であったアウグスト・クビツェクによると、『リエンツィ』を1906年または1907年に鑑賞した若きヒトラーは、この作品に強く影響されて政治を志すようになったという。1939年のバイロイト音楽祭でヒトラーと再会したクビツェクが、『リエンツィ』に大興奮した時のことを覚えているかと訊ねたところ、ヒトラーは「あの時に全てが始まった」と答えたとされる。クビツェクのこれらの証言の信憑性は今では強く疑問視されているものの、確かな事実としてヒトラーは『リエンツィ』の自筆譜を所有していた。これは1939年、ヒトラー50歳の誕生日に本人希望の品としてプレゼントされたものである。その後『リエンツィ』の自筆譜は総統地下壕に持ち込まれ、ヒトラーの死とともに行方不明となった。なおヒトラーは他にワーグナーの初期のオペラ『妖精』の自筆譜も所有していたが、これも『リエンツィ』の自筆譜と同様の運命を辿ったと考えられている。 ニュルンベルクのナチ党党大会では、開会式の音楽として『リエンツィ』の序曲が使われていた。アルベルト・シュペーアの回想によると、ある時ロベルト・ライが、開会式の音楽を『リエンツィ』序曲ではなく他の現代の楽曲にしてはどうかと提案したことがあった。ヒトラーは以下のように答えてこれを拒否したという。 「ライよ、党大会を『リエンツィ』序曲で始めるのには特別な意味があるんだ。単なる音楽上の問題じゃない。宿屋の息子だったリエンツィは24歳という若さで、ローマ帝国の偉大な過去をローマの人たちに思い出させて元老院を打ち倒させたんだ。若い頃、この神聖な音楽をリンツの歌劇場で聴いた時に、私もいつの日にかドイツ帝国を統一してこの国をもう一度偉大な存在にするという明確な目標を持ったんだ。」
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