『カイエ』までとは? わかりやすく解説

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『カイエ』まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 14:19 UTC 版)

アンドレ・バザン」の記事における「『カイエ』まで」の解説

1918年4月18日、フランス・メーヌ=エ=ロワール県アンジェ生まれる。 はじめ教職志し1938年パリ郊外オー=ド=セーヌ県サン=クルー師範学校入学。しかし1941年教職資格口頭試問失敗し、やがてパリで「文学会館 Maison des Lettres」を旗揚げたばかりピエール=エメ・トゥシャール(俳優劇作家1903年 - 1987年)と親しくなるシネクラブ創設しロジェ・レーナルト招いたバザン雑誌エスプリ Esprit』に連載されていたレーナルト記事スペクタクル小さな学校 La Petite école du spectateur」の愛読者だったのである1944年フランス解放国民与えた衝撃大きかった。この混乱のさなかで、戦争中損なわれ文化取りもどそうという動きが起こる。バザンもこの使命燃え、「労働文化 Travail et culture」と「民衆文化 Peuple et culture」と契約し大衆教育に関わった。ドイツアルジェリアモロッコなどの数々工場シネクラブ創設講演活動参加いっぽうでレクラン・フランセ L'écran français』、『パリジャン・リベレ Le Parisien Libéré』、『エスプリ』といった雑誌に、映画に関する論文発表また、ラジオシネマ=テレヴィジオン Radio-Cinéma-Télévision』誌(後の『テレラマ rama』誌)の創刊にも参加この頃少年鑑別所出た10代フランソワ・トリュフォー引き取って面倒をみていた。家族恵まれなかったトリュフォーにとって、バザン精神的父親であり、庇護者のような存在となってゆく。 やがて1951年ジャック・ドニオル=ヴァルクローズとともに、『カイエ・デュ・シネマ Les Cahiers du Cinéma』誌を創刊、その死去まで編集長をつとめる(1951年 - 1958年初代編集長)。一定の世代批評家未来映画人たちがこぞってこの雑誌寄稿し、彼らがヌーヴェルヴァーグ一翼を担うこととなる。

※この「『カイエ』まで」の解説は、「アンドレ・バザン」の解説の一部です。
「『カイエ』まで」を含む「アンドレ・バザン」の記事については、「アンドレ・バザン」の概要を参照ください。

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