「警鐘」グループ結成
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「日本共産党(革命左派)神奈川県委員会」の記事における「「警鐘」グループ結成」の解説
革命左派の直接の源流は、1966年(昭和41年)に社学同ML派から分派した河北三男(東京社学同→社学同ML派委員長)らとマル戦派を離れた川島豪らが結成した「警鐘」というグループである。グループ名の「警鐘」は彼らの発行していた機関紙名に由来し、「新左翼運動に対して警鐘を打ち鳴らす」という意味が込められていた。「警鐘」は1967年(昭和42年)6月に毛沢東思想を指導理論として掲げたが、当時の最高指導者であった河北三男は、社学同委員長時代に左翼の間でも批判の多かった中国の核実験を全面支持する等、以前より中国に陶酔していた。1967年11月には労働者大衆団体「京浜労働者反戦団」が結成され、同時期に学生・青年大衆団体「反帝平和青年戦線」(YF)も結成された。 「警鐘」は学生運動中心のそれまでの新左翼とは一線を画して労働運動を重視し、党員の条件として労働者であること(学生の場合は大学をやめて労働者となること)、家族を捨てて党員同士での共同生活をすることを求めていた。 「警鐘」は、当時の新左翼としては珍しく「婦人解放」を掲げていた。しかしその内容は「婦人解放のためには革命が必要なので、女性は革命運動に従事しなければならない」程度のもので、実態としては女性メンバーに対し組織(≒男性メンバー)への奉仕を求めるものだった。共同生活は多くの場合男女で行うこととされたが、これを嫌がる女性メンバーに対しては、組織が婦人解放を掲げていることを理由に「男性メンバーに対して失礼」という批判が加えられた。組織内での男女交際(結婚と同義だった)は幹部がお見合いを斡旋し、交際(=結婚)も幹部の承認の下に行われた。子供は活動の邪魔であるとして妊娠した場合は当然中絶するものとされ、且つ中絶は秘密裏に行い中絶直後も平常どおりの活動をすることが求められた。川島豪をはじめとした幹部の中には女性蔑視発言を公然とする者もおり、中には女性メンバーに対して性的暴行を加える者もいた。当時の女性メンバーは、組織から強要されるこれらのことと組織の掲げる「女性解放」との間に矛盾を見いだしていなかった。(これらの抑圧的な男女関係は、後に若いメンバーが加わるにつれ薄れていったが、部分的には残りつづけた。特に交際=結婚の幹部による承認制は、連合赤軍時代までかなり明確な形で引き継がれた。) 「警鐘」は当初は川島の母校である東京水産大学を主な拠点としていたが、後にML派の横浜国立大学グループがほぼ組織ごと「警鐘」に移行し、水産大と横国大を二大拠点とするようになる。一方でこのことをきっかけに「警鐘」はML派から目の敵にされるようになり、以降「警鐘」は革命左派初期に至るまでML派の襲撃を受けることになる。 後に革命左派・連合赤軍の幹部となるメンバーのうち、永田洋子はかつて社学同ML派に所属していた縁でオルグされたことから、水産大の坂口弘は以前より川島豪を慕っていたことから「警鐘」のメンバーとなっている。上赤塚交番襲撃事件で死亡した柴野春彦は「警鐘」に組織ごと移行したML派横国大グループの中心メンバーの一人であった。
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